世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は前漢末期に皇室での権力争いをきっかけに新しい国が建国されます。その創始者は史上まれにみる軍事力を使わずに文化的に皇帝の座に着いた人物でした。いったいどんな人だったのでしょうか?
中国に再び混乱が訪れます。それではみていきましょう!
MQ:新はなぜ中国に混乱をもたらしたのか?
今回の時代はここです!
王莽の台頭と「新」の建国
外戚と宦官
武帝の死後は、外戚(がいせき)と呼ばれる皇后(こうごう、皇帝の妃)の親族や宦官(かんがん)の勢力が台頭するようになります。
特に外戚では娘が皇后になって皇太子を産むと、皇后の父は次期皇帝と義父の関係になるので、皇后を通じて政治介入することが多く、外戚が政治の要職に就くことも多くなっていきました。
娘よ、何かいい役職に就かせてくれないか?
父を何かの役職に就かせてあげて。
わかったよ、君の頼みなら仕方ない。
皇帝や皇太子も人間ですからね、奥さんや母一族には忖度(そんたく)しちゃってたんでしょうね。まあこれは大げさな例ですが。
この外戚は簡単にいうとコネで要職に採用されているので、正規で採用された官吏(官僚)とは対立関係にありました。そりゃ正規採用からしたら嫌ですよね。今後もこの外戚と官僚は歴史の中でもめがちです。
王莽の新建国
そんななか、外戚から王莽(おうもう)という人物が台頭します。本日の主人公です。
「莽」・・・正確には「大」ではなく「犬」。パソコン上では出てこない文字なのでご注意ください。
この王莽を含む王一族は第11代皇帝の皇后一族として外戚になりました。王莽じたいは若い頃に実父が亡くなって一族の中に居場所がなかったのか、遊びにふける従兄弟(いとこ)たちを横目に儒学などの勉強に励んだそうです。
勉強の甲斐あってか、儒学の礼節を重んじるその姿から徐々に出世していき宰相(行政の最高顧問)まで上り詰めました。努力が報われたんですね。
そして紀元2年、王莽の娘が皇帝の妃になり晴れて外戚となって権力を握っていくことになります。王莽は儒学に精通していたため、儒学者らとともに、
儒学の「徳」を重んじる政治をするべきだ!
そうです!昔の「周」の頃のような血縁(宗族)を重視した政治をすべきなんです!
ということで王莽たちは皇帝の位を乗っ取るクーデター計画をたてます。
そして当時、娘の夫であった皇帝を毒殺してしまいます。その後、2歳の皇太子をたてて王莽自身は補佐役の「仮皇帝」として君臨しました。2歳には政治は厳しいですからね。うまく利用したわけです。
3年ほど経った後に王莽自らが皇帝に即位することを正当化し、後8年に皇帝に即位して新という王朝を建国したんです。この「新」は以前の「秦」と読み方が同じなので注意しましょう。
この王莽の皇帝即位はなかば無理やりなでっち上げによって正当化したらしく、即位する際は幼い皇太子の手をとって涙を流しながら
天帝(神)の命令には逆らえないのです。
と言ったそうです。本心かどうかはわかりませんが、野心だとしたら名演技ですね。(笑)
王莽の政治と混乱
新王朝ができて、王莽は改革に乗り出します。もともと儒学に詳しかったことから「周」時代の政治こそが理想だとしていました。
神に仕える私(皇帝)が徳によってみなを統治しよう。
ということで、政治体制を昔の「周」の頃にならって古風な体制に整えました。
当時農耕などは小家族が土地を所有して営んでいましたが、周の頃におこなわれた井田制とよばれる土地を国有化して共有しながら農耕をする制度などをとり入れました。
しかし、これらの改革はどれも中途半端で形式的なものになってしまいました。なぜでしょう?
周は当時から1000年も前の話です。現在の日本でいうと平安時代の制度を真似るようなものなんです。
1000年前の制度が合うわけないですよね。そりゃ実情に合ってないんですからやりずらいですよ。
そして周辺の異民族に対しては華夷思想から見下し外交をおこなったことで、異民族との関係も悪化してしまいました。
理想だけ追い求めても成功するとは限らないんですね。ちゃんと実情もわかってないと、、、
これらの政策は農民の反発をまねき、地方の有力者である豪族たちも不満が高まって新王朝から離れていくことになります。
豪族・・・農民層でも大土地を所有している富裕層
赤眉の乱と後漢の誕生
農民の中でも恵まれない貧困層は、王莽の土地政策に対して不満が大きかったようです。
土地制度が失敗したことで食糧不足に陥り、それに対してろくな対策が打たれなかったことから農民の不満が絶頂となり、各地で反乱が起こり始めます。
その中でも大規模だったのが後18年に起こった赤眉の乱(せきびのらん)です。役人に殺された息子の仇を取るために母親が復讐を呼びかけたのがきっかけでした。政府軍と戦う際に見分けがつくように眉を赤く染めていたことから「赤眉(せきび)」と呼ばれています。
しかし、不満をもつ農民があれよあれよという間に10万人以上の規模に膨れ上がりました。このタイミングで同じく不満をもっていた各地の豪族も新を倒すために挙兵します。
緑林軍・・・赤眉の乱よりも前に農民によって結成された反乱軍。新から「盗賊集団」として見られていたことから「盗賊」として認知されている。赤眉軍や豪族たちと共に新王朝打倒を目指した。
これら赤眉軍や豪族軍などは「対新反乱」という共通の目的から連合軍として新王朝に攻め入りました。
王莽は鎮圧しようと抗戦しましたが、最終的には追い込まれ、反乱軍に捕まり惨殺されて新王朝は23年に滅亡することになりました。
その後は、新しく建てられた皇帝が頼りなかったりと政権がなかなか定まらなかったのですが、最終的に赤眉軍が長安を支配して政権を握ることになります。
しかし、戦闘はめっぽう強かった赤眉軍でしたが、政治になるとまったくセンスがなかったんです。ふたたび中国国内は混乱してしまいます。
そんななか頭角を現したのが豪族として反乱軍を率いていた劉秀(りゅうしゅう)でした。
この劉秀は反乱中も農民軍の窮地を助けて勝利に導くなど活躍していました。新が滅亡した後も反乱勢力を吸収して強大化していました。皇帝にも目を付けられていましたが、、、
劉秀よ、一度王宮まで顔を出しなさい。
行くと面倒なことになるから無視しようっと。
ということで皇帝からの徴集を無視して地盤を固めます。
そして紀元25年、漢の復興を掲げて後漢(ごかん)を建国し、首都を洛陽(らくよう)に定めました。死後送られた名前は光武帝(こうぶてい)です。
建国後、統治がうまくいっていなかった赤眉軍を長安から撃退することにも成功しましたが、地方には農民が反乱を続けていたり、従わない豪族もまだまだ多かったことから後漢建国後も中国は群雄割拠が続いていました。
もともと光武帝も豪族だったことから後漢は豪族連合の色が強かったので、各地の豪族を取り込みながら農民反乱を少しずつ鎮圧していき、紀元36年に全国統一を果たしました。
まとめ
MQ:新はなぜ中国に混乱をもたらしたのか?
A:周の時代の封建制を理想としており、復古的な改革をおこなった。しかし当時の実情に合わない政策だったため、形式化してしまい混乱を招いた。
今回はこのような内容でした。
次回は劉秀(光武帝)が建てた豪族連合「後漢」では、光武帝の死後に王宮内で外戚と宦官の権力闘争が激化していきます。それがどのようなものだったのかをみていきましょう!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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