世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したPowerPointスライドもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はインド(南アジア)のイスラーム化についてです。
現在でも南アジアのパキスタンでは人口の約95%がイスラーム教徒が占めています。
そんなインドを中心とする南アジアではイスラーム教はどのように浸透していったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:インド(南アジア)でイスラーム化がもたらした変化とは?
今回の時代はここ!
イスラーム勢力の北インド進出
ガズナ朝
みなさん、インドはどこまでやっていたか覚えていますか?
インド(南アジア)では、ヴァルダナ朝が滅亡した後、いろいろな勢力が台頭する群雄割拠の時代(ラージプート時代)になっていましたね。
イスラーム勢力の進出については、ウマイヤ朝が北インドに軍事侵攻したのがきっかけに進んでいきました。
10世紀末に現在のアフガニスタンに成立したトルコ系イスラーム政権のガズナ朝が成立します。
ガズナ朝はサーマーン朝の地方総督だったマムルークのリーダーが独立したことで成立した王朝でした。
北のカラハン朝と争いながら、東の北インドへも度々侵攻していたのがイスラーム勢力の本格的なインド進出の先駆けとなりました。
ちなみにガズナ朝の侵攻はあくまでインドの資源や財宝の略奪が目的だったので、インド支配までには至りませんでした。
ゴール朝
インドへは略奪目的で、アフガニスタン周辺の支配に集中していたガズナ朝に対して、支配から独立して成立したのがゴール朝と呼ばれる王朝でした。
ガズナ朝は権力闘争や周辺諸国との抗争によって勢力が衰退していき、そのスキをみてゴール朝が独立して勢力を拡大していったんです。
徐々にゴール朝が優勢になっていき、最終的にはガズナ朝を滅ぼしてアフガニスタンを支配下に入れました。
アフガニスタンを支配下に入れたゴール朝は、ガズナ朝が滅びる前から北インドへも進出を試みます。
当時、北インドではラージプートと呼ばれるヒンドゥー教政権が群雄割拠の状態で争いあっていましたよね。
なのでゴール朝の侵攻に対してもラージプートたちは一枚岩になることができなくて、ゴール朝との戦いに敗れてしまいます。
これによってゴール朝はインダス川からガンジス川にかけての北インド一帯を征服することに成功して、インドのイスラーム化が一気に進んでいくことになりました。
ちなみに、この進出の過程でゴール朝は仏教国のパーラ朝も滅ぼしてナーランダー僧院などを破壊しています。
このゴール朝の侵攻によって仏教はインドから姿を消していきました。
ゴール朝はその後、インドで新たなイスラーム政権が独立し、イランとアフガニスタンだけになった後、ホラズム朝と呼ばれる王朝によって滅ぼされてしまいました。
奴隷王朝の成立とデリー=スルタン朝
奴隷王朝
ゴール朝はイスラーム勢力として大きくインドに進出することに成功しましたが、あくまで外から侵攻してきた王朝だったので、インド初のイスラーム政権が誕生したのはその後のことでした。
ゴール朝のインド遠征に同行した後に、北インドの統治を任されていた将軍アイバクが、ゴール朝の王が暗殺されたのをきっかけにデリーで独立政権を建国ました。
このインド初のイスラーム政権は、将軍アイバクがトルコ系マムルーク出身で、その後もマムルーク出身の君主が多かったことから、奴隷王朝と呼ばれています。
でも実際はマムルーク出身の君主は3人しかいなかったので、「奴隷王朝」という呼び方を疑問視する声もあります。
デリー=スルタン朝
この奴隷王朝の建国後、都市デリーを首都とするインド=イスラーム政権が5王朝連続で続きました。
この連続する5つのイスラーム政権をまとめてデリー=スルタン朝と呼びます。
①奴隷王朝(1206~1290)
②ハルジー朝(1290~1320)
③トゥグルク朝(1320~1413)
④サイイド朝(1414~1451)
⑤ロディー朝(1451~1526)
5つの王朝の中でも2つ目のハルジー朝は、外敵との戦いや南インドへの遠征費を賄うために、地租(ハラージュ)を金納にしたり、人頭税(ジズヤ)を三段階の累進課税にするなどの税制改革をおこなって財政を安定させようとしました。
この政策は後にインドを長期間支配することになるムガル帝国の統治に引き継がれていくことになります。
イスラーム政権のインド統治
デリー=スルタン朝によってインドでは初めて長期間に渡ってイスラーム政権が続くことになります。
これによってインドでのイスラーム化が進んでいくことになりました。
でもこのイスラーム政権にはインドならではの問題も抱えていたんです。
ではいったいその問題とは何なのか?
イスラーム政権はどんな政策をおこなったのでしょうか?
SQ:イスラーム政権はどんな政策でインドを統治したのか?
まずは当時インドがどんな社会だったのかと、イスラーム教がどんな宗教だったのかを復習しておきましょう。
簡単いうと、インドでは大多数の人がヒンドゥー教を信じ、それに基づくカースト制と呼ばれる身分制のもとで暮らしていました。
このインド社会に入ってきたイスラーム教とヒンドゥー教を比較してみると、
・神:イスラーム教…偶像崇拝を禁止する厳格な一神教、ヒンドゥー教…偶像崇拝による多神教
・死後:イスラーム教…土葬(死後の復活と最後の審判を信じ、魂の戻る肉体を守るため)、ヒンドゥー教…火葬(魂の輪廻転生を信じ、灰を川に流すため)
・食事:イスラーム教…豚は不浄のため豚肉を禁止、ヒンドゥー教…牛は神聖のため牛肉禁止
このように教義や信仰の面でイスラーム教とヒンドゥー教には大きな違いがあったんです。
なので、イスラーム勢力はインドへ進出した際、その宗教観の違いからヒンドゥー教を攻撃するようになり、ヒンドゥー教寺院の破壊や改宗を強制するなど、高圧的な態度をとっていました。
まあ、イスラーム教徒は自分たちが正しいと思っているので、異教徒が間違っていると思ってそれを変えようとするのは以前にもありましたね。
しかし、インドではヒンドゥー教徒が大部分を占めていたので、あきらかに少数派のイスラーム教徒が教義に基づく政治を強制することが難しかったんです。
そこでイスラーム政権は、インド統治を継続するためにインド社会に適応する必要が求められました。
例えば、地方政治や徴税の方法はそのまま温存して、支配も地元の有力者に任せるといった方法などによってインド社会を壊さないように工夫しました。
宗教に関しても、人頭税(ジズヤ)を払うことでヒンドゥー教徒たちは信仰を許されて、カースト制に基づく社会の仕組みを維持することができたんです。
まあ、「社会構造を壊さないように」というよりは、そうしないと統治が安定しなかったからそうせざるを得なかったんでしょうね。
こうしたイスラーム政権の妥協によって、広大なインド統治がおこなわれたんですね。
インド=イスラーム文化
統治では妥協せざるを得なかったイスラーム教ですが、インドに与えた影響は案外大きかったんです。
ヒンドゥー教には神への献身的な信仰を求めるバクティや、苦しい修行を通して神との合体を試みるヨーガなど、イスラーム教の信仰と共通する部分がありました。
健康法として日本でも親しまれているヨガはこのヨーガからきているんですよ。
なので、人口が集中する都市やカースト制に苦しんでいる下層市民の間でイスラーム教が受け入れられるようになっていき、徐々にインドでイスラーム教が広がっていきました。
都市ではもともとあったヒンドゥー教に加えてイスラーム教の要素を入れた都市が建設されるようになり、サンスクリット語の作品もペルシア語へ翻訳されるなど、学問分野でもイスラーム化が進んでいきました。
このようにインド文化とイスラーム文化の融合したことによってインド=イスラーム文化が誕生して発展していきました。
まとめ
MQ:インド(南アジア)でイスラーム化がもたらした変化とは?
A:社会面ではヒンドゥー教やカースト制を維持した妥協政策が採られたが、都市部や下位カーストの中ではイスラーム教が広がっていった。文化面ではインド文化とイスラーム文化が融合し、建造物や学問でイスラーム化が進み、インド=イスラーム文化が誕生した。
今回はこのような内容でした。
次回は、東南アジアのイスラーム化をみていきます。東南アジアではどのような要因でイスラーム化が進んだんでしょうか。
それでは次回もお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
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・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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