世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は始皇帝によって統一された秦に、統一政策の副作用が現れて動揺します。その中で秦にかわる新王朝をめぐってあの「四面楚歌」がうまれます。
それではみていきましょう!
MQ:秦の政策によってうまれた副作用とは?
今回の時代はここ!
秦の動揺
始皇帝の全国統一政策は、普及と達成のために人やモノを総動員しておこなわれました。
そのために秦は戸籍を整理して人員がスムーズに動員できるようにし、これに従わない人は厳格な法律によって罰していました。実際に見つかっている文書では違反行為に対して細かい罰則が設けられていたりしています。
中央集権化や法家にもとづく法治国家のやり方ですね。
匈奴や南越などへの遠征や長城の建設などは、全国から大勢の人員が動員されました。こういった軍事行動や土木工事は徐々に民衆の負担を大きくしていったんです。
そりゃ征服されて間もない秦に使わされるのは気が乗りませんよね。特に長城や匈奴との国境から離れていた南の楚などは不満が大きかったそうです。楚からしたら今まで匈奴とはほぼ無縁でしたからね、負担を強いられるのは嫌ですよね。
始皇帝は統一後、12年間にわたって統治しました。その後、始皇帝が亡くなった後にそれまでの副作用が一気に出てしまうんです。反乱という形で。
その先駆けとなったのが、中国史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)です。
楚の出身の農民であった陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)は、ある日軍隊に徴兵されました。ですが任地に向かう途中で大雨に遭ってしまい、期限までに到着するのが厳しくなってしまったんです。
このままじゃ到着しても死刑になっちまう。もう秦にはこりごりだ!呉広!俺と一緒に秦に一矢報いろうぜ!
そうだな!やってやろうぜ!
到着が遅れるだけで死罪とは厳しいですね。ですがこれほど秦は厳格に国家を運営していたんですね。もともと敵だった大国を治めるためには必要だったのでしょう。
しかし、これによって初の農民反乱が起こります。この時に合言葉になったのが、
「王侯将相(おうこうしょうしょう)いずくんぞ種(しゅ)あらんや」
これは「皇帝や諸侯、将軍や丞相(大臣)たちのような人達は、最初から存在していたわけではない。」という意味で、身分や家柄を否定して平等を主張しました。
貧富の差に対する主張はどの時代、国でも起きる問題ですね。
この反乱は最終的に数万人にも及ぶ大反乱へと発展しますが、結局は内輪もめで陳勝と呉広は殺されてしまい、崩壊していき秦によって鎮圧されてしまいました。
ですが、この反乱をきっかけに全国の不満を持つ人々が各地で秦に対して反乱を起こします。この陳勝・呉広の乱は、その後の秦の滅亡のきっかけを作ったんですね。まさにターニングポイントです。
秦の滅亡
この陳勝・呉広の乱に呼応して立ち上がった二人の人物がいました。項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)です。
どちらも秦に滅ぼされた楚の出身でした。楚は秦の統一政策に特に不満をもっていたところでしたね。
項羽
項羽(こうう)はもともと楚の将軍だった名門家系の出身で、いわゆる「エリート」でした。
秦に征服され、政策に対して不満があった項羽は、
いつか楚を復興させたい。
と思っていた矢先に、陳勝・呉広の乱がおきたのでそれに呼応して楚の復興を掲げて挙兵しました。エリート出身なので、そのカリスマ的能力で反乱軍の中心として活躍していきます。
年も若く、まさに若きリーダーという感じですね。
最終的に40万の軍勢を率いて秦の関中(秦の中心部)に侵入し、秦の皇帝一族(当時3代目)や臣下(官僚)を皆殺しにして、首都や王宮の破壊を命じるなど秦の根絶を徹底しておこないました。それほど恨んでいたんですね。
劉邦
エリートの項羽とは異なり、劉邦(りゅうほう)は楚の農民出身でした。若い頃はヤクザと交流し、その後は下級役人として始皇帝陵の造営に携わっていました。
エリートだった項羽とは対照的ですね。
でもこの劉邦が後に前漢を建てることになるんだよ。歴史ってわからないね。
ですが土木事業は過酷で逃亡者も多く、最終的に劉邦も残った者たちを引き連れて盗賊になってしまいました。それほど辛かったのでしょうね。
そこで陳勝・呉広の乱が起きてそれに呼応して項羽と同じく挙兵しました。
ブランド力で勢力を拡大した項羽とは違って、同じく辛い思いをした農民や盗賊たちなど、価値観が同じ仲間が劉邦のもとに集まって勢力を拡大していきました。
陳勝・呉広の乱が鎮圧された後も、秦に不満のある人々が劉邦のもとに集まりどんどん巨大化していきました。最終的には、項羽とどちらが早く秦を倒せるかを競うほどに成長していきます。
10万の軍勢で先に関中に入った劉邦は、秦を降伏させて実質的に秦を滅亡させます。そこから項羽が来るのをまって、その後は先ほどお話しした虐殺と破壊がおこなわれました。
項羽が秦を滅ぼした後は、項羽のブランド力と大軍(約40万)を率いていたことから、項羽の配下に入って力を蓄えていくことになります。
前漢の成立
秦を根絶した項羽は楚王を皇帝にたて、楚にもどって西楚の覇王(諸侯)として君臨しました。
配下に入った劉邦には漢水上流の地域を与えて漢王の地位を与えます。
前漢・・・国号は「漢」だが、一度絶たれ「新」という国ができた後に、再度「漢」が復興されたことから、「前漢(前202~後8)」と「後漢(後25~220)」にわけて呼ばれている。
この地で力を蓄えて、時が来れば項羽を倒してやる。
劉邦は関中を与えてもらう約束だったのですが、それを守ってもらえなかったのでずっと我慢していたんです。それで項羽を討つ機会をうかがっていたんです。
そして前205年に事件がおきます。項羽が建てた皇帝が項羽によって殺害されてしまったのです。項羽は権力に目がくらんでしまったんでしょうか。
この皇帝殺害によって劉邦は項羽を倒す大義名分を手に入れます。
ついにこの時が来たー!
て感じですね。
これによって劉邦が挙兵して項羽との最終決戦である楚漢戦争が始まりました。
楚漢戦争
はじめ劉邦は劣勢に立たされます。何度か敗戦し危機的状況に追い込まれますが、有能な部下たちの活躍もありなんとか持ち直して項羽と攻防を繰り広げます。
この時に劉邦の部下の韓信(かんしん)が川を背に戦って勝利したことから「背水の陣」という言葉が生まれたりもしました。
劉邦は人心掌握がうまかったので、徐々に勢力を拡大し項羽と渡り合うようになっていきます。
そして開戦から3年、2人は激戦のなか、一旦和議を結んで兵を退却させることになりました。
しかしそこで劉邦が動きます。一方的に約束を破って項羽の背後を攻撃して、最終的に項羽軍を包囲してしまいました。
この垓下の戦いによってついに劉邦が優勢に立ちます。この包囲戦で生まれた言葉が「四面楚歌」(しめんそか)なんです。
この後、項羽は包囲網から脱出しますが漢軍の追撃に遭って最終的に自殺をして楚漢戦争は幕を閉じました。これによって楚漢戦争は漢の劉邦の勝利に終わったんです。
漢王朝の始まり
戦いに勝利した劉邦は、味方の諸勢力から初代皇帝として推薦されて、前202年に漢王朝(前漢)を開きました。
劉邦は死後、「高祖(こうそ)」という廟号(びょうごう)を与えられています。教科書や参考書によっては生前から「高祖」と呼んでいるものもあるので注意しましょう。
廟号(びょうごう)・・・死後にその皇帝の業績にあわせて送られる名前。
この前漢は統一王朝では初の長期で安定した王朝となっていきます。前漢だけでも約200年も続いたんですよ。どんな国造りをしたかは次回みていきましょう!
まとめ
MQ:秦の政策によってうまれた副作用とは?
A:軍事行動や土木事業など、急進的な統一政策は民衆の生活を苦しめ、法によって厳罰を課す管理は被征服国家の不満を増大させた。これらが統一政策の副作用となって、農民反乱から始まる秦滅亡の原因になったと考えられる。
今回はこのような内容でした。
次回は劉邦(高祖)が開いた長期王朝である前漢はどのような統治をおこなったのか?秦の二の舞にはならなかったのか?などについてみていきます。
それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓
・『世界史の窓』、世界史の窓 (y-history.net)
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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