世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回は前回の大陸部の国家形成の続編になります。「インド化」がおこったあと、東南アジアではどんな文化が根付いたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:大陸部各国ではどんなインド文化が根付いたのか?
今回の時代はここ!
カンボジア(真臘、しんろう)
中国で隋、唐などの統一王朝が誕生したことで、東南アジアを通した東西交易が活発になっていきます。
そのような影響下で勢力を拡大した国家が東南アジアに登場し始めます。
代表的なのが、6世紀にメコン川中流域でクメール人が建てたカンボジア王国です。
中国では「真臘(しんろう)」と呼ばれていました。
このカンボジアは7世紀には扶南を征服して勢力を拡大していきます。
途中分裂期を挟みますが、9世紀には統合されてアンコールを首都とするアンコール朝が誕生します。
アンコール朝もクメール人が建てた王朝なので、広い意味でのカンボジア王国と同じ意味になるので注意しておきましょう。
わかりやすく言うなら「アンコール朝カンボジア」ですね。
このアンコール朝は12世紀に全盛期を向かえ、この時代は東南アジアの「インド化」が進んでいたことから、アンコール朝もヒンドゥー教の影響をうけていました。
特に当時の王スールヤヴァルマン2世がヴィシュヌ神を信仰したことから、ヴィシュヌ神を祭るヒンドゥー教寺院を建設しました。
それが世界遺産として有名なアンコール=ワットなんです。
アンコールは「首都」、ワットは「寺院」を意味するのでアンコール=ワットとは「首都の寺院」という意味になります。
アンコール=ワットの回廊には『マハーバーラタ』などの物語が浮き彫りされていて、ヴィシュヌ神を信仰していたことがわかります。
その後、アンコール朝は一時チャンパーの侵攻をうけますが、なんとかそれを退けます。
その時の王スールヤヴァルマン7世が仏教を信仰していたことから、12世紀後半~13世紀にかけて仏教寺院を含む大都市アンコール=トムが建設され、アンコール=ワットも仏教寺院として使用されました。
SQ:寺院は人々の生活にどんな役割を果たしていたのか?
実はこれらの寺院は、人々の生活や経済に大きな影響を与えていました。
1つめの役割は、上のアンコール遺跡を見てみると、寺院の周辺にバライと呼ばれる水浴施設が多く設けられていますね。
これらは水浴以外に人々の生活に密着に関わっていました。いったいどんな目的で使われたんでしょうか?
農業に必要な水を貯めておく目的があったと思います。
そうなんです。この水浴施設は、乾季に農業用水の供給するなどの非常時の貯水池としての役割を担っていました。
農業生産の生命線だったんですね。
乾季の農業用水を供給するなど、非常時に備える貯水池の役割があった。
2つの役割は、寺院建立による経済効果です。
立派な寺院があるといったいどんな効果が起きるでしょうか?
たくさんの人がそこを訪れると思うので、観光地のようになっていったと思います。
その通りです。人々が集まる場所にはお金も集まります。自然と寺院の周りには市場ができて商業がおこなわれるようになったんですね。
訪問する人々を生み出すことで周辺に市場ができて、商業活動がおこなわれるなどの経済効果の役割があった。
このように寺院の建設は人々の生活にも密接に関わり、社会の形成にも一役買っていたんですね。
以上のことをまとめると、、、
カンボジア王国は途中、タイの侵攻やフランスの保護国になるなどの苦難を乗り越えて現在でも残っているんです。
ビルマ
ピュー
まず「ビルマ」という言葉を知っているでしょうか?
このビルマは現在のミャンマーを指しており、ミャンマー語だった「ビルマ」を英語表記で「ミャンマー」というんです。
ミャンマーへの改名・・・1989年に当時の軍事政権が英語表記の「ミャンマー」に国名を変更。
そんなビルマにはエーラワディー川(イラワディ)が流れていて、その流域で3~9世紀に国家を建設していたのがビルマ系のピュー人でした。
このピュー人国家は、扶南や南詔などと交流を行っていました。
パガン朝
11世紀になると、ビルマ人による初のビルマ統一国家であるパガン朝が誕生します。
パガン朝は稲作を経済基盤とした国家で、征服した先住民がスリランカの上座部仏教の文化の影響を受けていたので、パガン朝もそれを引き継ぐ形で上座部仏教を信仰しました。
その土地の土着文化を継承するほうが治安が保たれて国家が安定しやすいですからね。
首都のパガンには数多くの仏教寺院(パゴダ)が建立され、パガン朝は「建寺王朝」とも呼ばれています。
パゴダ・・・仏塔を意味するストゥーパの英語読み。
このパガン朝は仏教寺院の建立ラッシュが続いた影響で、財政難に陥って次第に弱体化していきます。
そして13世紀にクビライ(フビライ)率いる元朝に侵攻され、衰退、滅亡してしまいました。
タイ
ドヴァーラヴァティー
現在のタイがある地域では、チャオプラヤ川が流れていて水田耕作がおこなわれています。
その流域で7~11世紀にかけてモン人によるドヴァーラヴァティー王国が発展しました。
このドヴァーラヴァティーは、チャオプラヤ川を利用した南シナ海とその周辺を結ぶ海上交易で栄えた港市国家でした。
中国の唐の文献でも登場し、交流があったことがわかっています。
なんと『日本書紀』でもドヴァーラヴァティー人らしき人々が657年に日本に漂流したという記録が残っているほど、交流を盛んにおこなっていたんです。
しかし、このドヴァーラヴァティーは9世紀には衰退していき、10世紀には消滅してしまいました。
スコータイ朝
13世紀にモンゴル帝国の元朝が雲南を支配して内陸の交易が盛んになると、その影響でタイを中心にタイ系の民族の活動が活発的になります。
当時、元朝による東南アジアへの遠征が行われ、東南アジアは情勢が変化する激動の時代を迎えていました。
その混乱に乗じてタイ人が自立して建国されたのがタイ最古の王朝であるスコータイ朝でした。
このスコータイ朝もスリランカやインドなどとの交流から上座部仏教が保護され、各地に仏教遺跡が残っています。
しかし、14世紀になるとタイ南部にアユタヤ朝が誕生し、スコータイ朝はアユタヤ朝の侵攻に次第に衰退していき地方政権化していきました。
そして最終的にアユタヤ朝に併合されるかたちで滅亡しました。
ちなみにカンボジアのアンコール朝を一時支配したのもこのアユタヤ朝です。
まとめ
MQ:大陸部各国ではどんなインド文化が根付いたのか?
A:一部ヒンドゥー教が信仰された国もあったが、セイロン島やインドとの交易などによって、ほとんどの国で上座部仏教が信仰され、現在でもそれが根付いている。
今回はこのような内容でした。
東南アジアの大陸部では、現在も上座部仏教が厚く信仰されており、多くの人が出家して寺院で修行をおこなっています。
次回は東南アジアの諸島部の国家形成をみていきます。いったい諸島部ではどんな文化になったんでしょうか。
それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓
・『世界史の窓』、世界史の窓 (y-history.net)
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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