世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はオリエント文明との戦いであるペルシア戦争についてみていきます。
この戦争によってギリシアにどんな変化をもたらしたのか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:ペルシア戦争でギリシアは何を守ろうとしたのか?
今回の時代はここ!
戦争の発端
イオニア反乱
アテネを含めたギリシアで民主政の基礎ができあがりつつあった頃、隣のオリエントではアケメネス朝ペルシアが全土を統一して帝国を築いていました。
アケメネス朝はギリシアと関係が深かったリディア王国を滅ぼして、ギリシア植民市が多くあるアナトリア(現在のトルコ)のイオニア諸都市を支配下に置いていました。
しばらくは統治に問題はなかったのですが、アケメネス朝の領土が拡大するにつれて課税や徴兵が厳しくなっていき、イオニア諸都市は次第に不満を募らせていきます。
アケメネス朝のダレイオス1世がスキタイ遠征への徴兵を強要した際にその不満が爆発して、都市ミレトスを中心に諸都市がイオニア反乱を起こしました。
これを察知したギリシアのアテネなどは、専制的なアケメネス朝が迫る危機を感じて民主政を守るべくイオニア諸都市へ援軍を送り込んだんです。
結果、反乱はアケメネス朝によって鎮圧されましたが、ダレイオス1世は、
帝国内の安定を図るためにはアテネなどのギリシア諸都市は脅威である。
とのことから反乱を支援したギリシア諸都市に対して遠征をおこないました。
これによって始まったのがペルシア戦争です。
マラトンの戦い
前492年に、アケメネス朝はギリシア本土への侵攻をしようと軍を差し向けましたが、暴風雨に合って本格的な戦闘なく退却してしまいました。
そして前490年、再び遠征軍を組織したアケメネス朝とギリシアのアテネ軍が激突したのがマラトンの戦いでした。
この時ギリシアはスパルタの援軍が間に合わず、アテネ軍の1万のみで倍以上のアケメネス朝を迎え撃つことになります。
(以下、アケメネス朝の軍を「ペルシア軍」と記載します。)
将軍ミルティアデスに率いられたアテネ軍は、ペルシア軍が到着するタイミングを見計らい、重装歩兵部隊が攻撃を行い、ペルシア軍を撃破することに成功しました。
敗北したペルシア軍は海上へと退却しましたが、裏をかいてアテネ市街の方面に向かって侵攻することにしたんです。
アテネはピンチに陥りますが、将軍ミルティアデスはそれを読んでいました。
伝令をできるだけ早くアテネに走らせて、全軍も急ぎ足でアテネに戻ります。
そのかいあってペルシア軍が海上を迂回してアテネに着いた頃には、アテネ軍が戻っていることに戦意を失ってしまい、自国へと退却していきました。
これによってペルシャ戦争一度目の激戦マラトンの戦いはギリシア軍の勝利に終わりました。
ギリシアの苦戦
アテネ海軍の建設
アテネがマラトンの戦いで勝利したのち、ラウレイオン銀山で大鉱脈が発見され、アテネは大資源を手に入れることになりました。
アテネはその資金でを使ってテミストクレスの指導のもと、最新鋭の軍船だった三段櫂船(かいせん)を造ってアテネ海軍を拡大させました。
テルモピレーの戦い、アルテミシオンの海戦
そして前480年、アケメネス朝ではダレイオス1世を継いだクセルクセス1世が約20万人もの陸海軍を編成して再びギリシア侵攻を始めました。
ちなみにマラトンの戦いの敗戦後、アケメネス朝ではエジプトで反乱が起こったため、ダレイオス1世はギリシアに兵を送る余裕がなく、ギリシアへの復讐を息子のクセルクセス1世に託してこの世を去ってしまいました。
対するギリシアはアテネ、スパルタを中心に連合軍が作られましたが、中立を保ったり、アケメネス朝側につくポリスも多数あって、「ギリシアで一致団結」とはいかなかったようです。
そんなことはお構いなく、ペルシア陸軍は北部から侵攻して、テルモピレーでスパルタを中心とするギリシア軍を破ります。
この際にギリシア最強のスパルタ軍は、レオニダス王自ら前線に立って奮闘しましたが、最後は背後をつかれてしまい、王を含めて全滅してしまいました。
スパルタはこの時期に大事な祭祀を控えていて、神の信託によって出兵が許可されませんでした。そこでレオニダス王は守備隊の巡回という名目で、後継ぎの子供のある者たちだけの中から選りすぐった300人でこのペルシア軍を迎え撃ったとう逸話があります。
伝説の「三百人隊」ですね。実際は他のポリスの援軍も少しばかりあったらしいですが、、、
海上でも、アルテミシオンの戦いでギリシア海軍はペルシア海軍に敗れてしまいます。
この時のペルシア海軍はフェニキア人が担っていて、地中海交易を競争相手だったギリシアを打倒するために1,000隻以上のガレー船を提供していました。
そしてペルシア軍の侵攻によってアテネが陥落してしまい、アテネ軍はポリスを放棄して、サラミス島に立てこもるほどのピンチに陥ってしまいます。
サラミスの海戦
連敗を喫したギリシアは、アテネのテミストクレスのもと海軍を整備してサラミス島に立てこもります。
陸上ではもう勝てないと踏んでいたテミストクレスは、女性や子どもをアテネから疎開させました。
そして低級市民・奴隷関係なく、戦える成年男子を全員船に乗せてペルシア海軍との決戦に挑みます。
数で劣るギリシア海軍は、アテネとサラミス島の間にある狭い海峡にペルシア海軍をおびき寄せて、三段櫂船による体当たり作戦を決行しました。
この作戦は、ギリシア海軍の三段櫂船はペルシア海軍のガレー船よりも小回りが利くことが利点だったので、それを利用して尖って頑丈な舳先(へさき)で敵船の横腹に体当たりをして沈没させるというものでした。
これが功を奏してペルシア海軍を撃退することに成功したんです。
この海上での戦いで勝利したことで、ペルシア軍のクセルクセス1世は陸上での決戦を諦めて退却することになりました。
ギリシアは滅亡の一歩手前までいきましたが、なんとか踏ん張って勝利を手にすることができました。
プラタイヤの戦い
サラミスの海戦に敗北したペルシア軍は翌年、冬を超えたタイミングで再びギリシアに迫りました。
これに対して、ギリシア側はアテネとスパルタの連合軍によって陸上にて迎え撃ちました。
これが前479年に起こったプラタイヤの戦いです。
この戦いは激戦の末、ギリシア連合軍がペルシア軍の侵攻を食い止めることに成功して、ペルシア軍はギリシア征服に完全に失敗することとなってしまいました。
オリエント最強のアケメネス朝ペルシアとギリシア諸都市によるペルシャ戦争は、一旦ギリシア側の勝利として終わりを告げました。
ペルシャ戦争後
ギリシア側の勝利によって、アケメネス朝ペルシアに支配されていたイオニア諸都市も独立を果たしました。
しかしギリシアの勝利で終わったペルシャ戦争でしたが、終結後もギリシアとペルシア軍との小競り合いは各地で続いていました。
なのでギリシア諸都市はペルシア軍の再度の侵攻に備えて、対ペルシアの軍事同盟を結ぶことになりました。
それがデロス同盟と呼ばれるものです。
戦争での功績が大きかったアテネを盟主として約200ものポリスがこの同盟に参加しました。
・各ポリスは一定数の軍船を提供して連合艦隊を形成し、それが不可能なポリスは指定された納入金(フォロイ)を同盟の共同金庫に納める。
しかし、実際に軍船を提供したのはアテネだけだったようで、他のポリスは納入金を納めるだけだったそうです。
共同金庫は共通の信仰の対象であったアポロン神殿のあるデロス島におかれ、同盟の会議もそこで開催されることになりました。
ペルシア戦争によってギリシア人はより結束を強めましたが、逆に異民族に対しては「野蛮」というイメージが定着するようになりました。
まとめ
MQ:ペルシア戦争でギリシアは何を守ろうとしたのか?
A:オリエントの専制的な支配から民主政、そして自由と独立を守ろうとした。
今回はこのような内容でした。
次回は、ペルシャ戦争後にギリシアで支配権を強めるアテネで民主政が完成します。
では次回のアテネ民主政(完成編)をお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
この記事で使用した授業スライドのダウンロードはこちら↓
・『世界史の窓』、世界史の窓 (y-history.net)
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男・橋場 弦(2022)、『詳説世界史探究』、山川出版社
・木村 靖二 ・岸本 美緒 ・小松 久男(2017) 、『詳説世界史研究』、山川出版社
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