世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後には使用したパワポもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。
はじめに
前回はこのような内容でした。
今回はアテネで民主政の基礎が築かれていく流れを見ていきたいと思います。
アテネではどのような経緯で民主政が出現したんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:アテネはどのような経緯で民主政が出現したのか?
今回の時代はここ!
ドラコン
SQ:なぜ法律が成文化されたのか?
法律の成文化
前7世紀ごろ、アテネでは貴族と平民との抗争が激しくなっていました。
なぜ抗争が激しくなっていたのかわかりますか?
平民が重装歩兵として国防の主力となったことで、政治を独占している貴族に不満を持ち始めたからです!
その通りです。それによってアテネでは、参政権を得たい平民と既得権益を維持したい貴族で抗争が起きていたんですね。
この抗争を治めるために、アテネではさまざまな改革が行われました。
そして、この抗争期に立法家として任命されたのが、ドラコンでした。
このドラコンによっておこわれたのが法律の成文化です。
成文・・・文章に書き表す。文章化すること。
成文化されたということは、それ以前はどうだったのでしょうか?
それまで法律は慣習法という、ある慣習が「守るべきルール」として市民の意識の中にだけ存在するものだったんです。
例えば、「家に入る時は靴を脱ぐ。」というルール。このルールは法律で定められているわけではありません。しかし、そういう文化が慣習になって、みんなの意識の中にある「ルール」になっていますよね。これが一種の慣習法と呼ばれるものです。
要は文字でルール化されていなかったんですね。
では、法律(ルール)が文字化されていないと起こる問題とは?
当時、政治を独占していたのは貴族たちです。なので、何か問題が起こった際に対処、処罰するのも貴族です。
なので貴族の立場に立つと、
この事件だとAという対処はどうだろう。
いや、でもBという考え方もあるな~。
でもこれだとこっちが不利になるからCかな~。
このように、文字化されていないので、裁判をおこなう貴族が勝手な解釈によって、平民に不利な判決をすることができてしまうのです。
平民からすれば、
法律(ルール)は貴族しか知らないから抗いようがないよ。
この不平等な事態を改善するためにドラコンによって法律が成文化されたんです。
これによって平民に法律を知る機会が与えられて、貴族の法の乱用を防ぐことができました。
成文化された法によって。市民みんなで秩序を維持することができるようになったんです。
ソロン
財産政治
ドラコンの改革によって平民の権利は守られるようになりましたが、それでも貴族が政治を独占していることに変わりはなく、平民と貴族の対立が続いていました。
そこで「調停者」として市民からの支持で改革の乗り出したのがソロンという人物でした。
ソロンがまず取り組んだ改革が、財産政治です。
平民が貴族に対して不満に思っていたことは何でしたか?
貴族が政治を独占していたことです。
そうでしたね。なので平民が政治に参加できれば対立は起きないわけです。
そこでソロンがおこなった改革の一つが財産政治なんです。
なぜ平民が不満を持っていたかというと、重装歩兵として国防に貢献していたからですよね。
なのでソロンがおこなった財産政治とは・・・
武器を購入できて、どれだけ国防へ貢献できているかで参政権を与えようではないか。それであれば文句はないだろう。
国防への貢献度はどれだけ良い武具を揃えて戦えるかどうか、言い換えると「どれだけ金(財産)を持っているか。」という点で測られました。
だから「財産政治」と呼ばれているんですね。
なので、市民を年間の農業生産物高に応じて4階級に分け、それぞれ階級に応じた参政権が与えられることになりました。
SQ:財産政治の画期的な点は?
現代であれば財産政治は「金権政治」だ!と批判されるかもしれませんね。
しかし、古代ギリシアでは貴族たちによる血統で政治に参加できるかが決まっていました。
それが「財産」つまり「経済力」で政治に参加できるチャンスが平民に与えられたんです!
金を稼いで武具を揃えて国防に貢献できれば国の政治に意見できるぞ!
それまでノーチャンスだった平民に参政権を手に入れる手段が手に入ったのです。
そのような点でこの財産政治は画期的だったんですね。
債務奴隷禁止
そしてもうひとつソロンが取り組んだ改革が「債務奴隷禁止」です。
アテネでは、返済できない債務(借金)を負った市民(主に平民)が奴隷として売り飛ばされて身分が転落するということが良く起こっていました。
ソロンはその市民の借金を帳消しにして、債務(借金)を負った市民を奴隷として売ることを禁止したんです。
SQ:なぜ債務奴隷を禁止したのか?
ではその目的とはいったい何だったのでしょうか?
奴隷に転落する市民(平民)が出続けるとポリスはどうなってしまうでしょうか?
単純に市民の人口が減少してしまいます。
そうですね。
では市民たちはポリスでどんな役割を担っていましたか?
あっ!市民は戦士として国防を担っていたので、兵士の数も減少して軍事力が落ちてしまうと思います!
大正解!「市民の減少=軍事力の低下」を意味するので市民流出は国家の危機に直結するんです。
このような理由から、市民が奴隷となって国外に流出するのを防ぐために債務を帳消しにして売り飛ばすことを禁止したわけなんですね。
これによって経済規模の小さい中小農民が主に助けられて、平民と貴族との格差是正に貢献しました。
ペイシストラトス
僭主政治(せんしゅせいじ)
ソロンの改革によってアテネの民主政を前進させましたが、貴族と平民間の対立を終わらせることはできませんでした。
やがて多くのポリスでは、平民に支持された人物が非合法(クーデターなど)に政権を握って独裁化してしまう現象が起きました。
この際の独裁者のことを僭主(せんしゅ)といいます。
この僭主によって独裁を敷く僭主政治がギリシア各地で誕生しました。
ペイシストラトスの僭主政治
この僭主政治の典型的な例として有名なのが、アテネのペイシストラトスです。
このペイシストラトスは、異民族との戦いで名声を上げて平民から人気を得ていた人物でした。
平民の支持を得たペイシストラトスは、その後ろ盾でアテネのアクロポリスを武力によって占領してしまい、そのまま僭主となって僭主政治を確立させてしまいました。
現代で独裁政治と聞くと、「独裁者の利益を考えた横暴な政策がおこなわれて国内が混乱してしまう。」というような想像をする人は多いと思います。
しかし、ペイシストラトスの僭主政治は長期で安定した政権だったんです。
ペイシストラトスは非合法(クーデター)で政権を勝ち取りましたが、政権獲得後は国の制度を変えることなく、合法的に政治をおこなっていたんです。
中小農民の保護と商工業の発展
まずおこなったのが、中小農民の保護です。
経済的に豊かではない中小農民に資金を貸し付けをおこないました。
その借りた資金で農民たちは農業に従事することで、以前よりも多くの農作物を収穫することができます。
その結果、アテネ全体の農産物増大に繋がりました。
加えて銀貨を大量に発行して国外からの移民も積極的に受け入れもおこないました
その移民たちに商工業に従事してもらうことで、アテネの経済規模はさらに大きくなって平民たちは豊かになっていくことができました。
なんでペイシストラトスはここまで、平民たちに優しくしたのですか?
もともと平民の支持で僭主になったので、彼らを無碍(むげ)にはできなかったのでしょう。
ポリスの発展を考えていたのは確かでしょうが、ポリス全体の経済が発展すると一番お金(税金)が入ってくるのは、ペイシストラトス本人なので、美味しい思いも出来ますね。
経済的に豊かになった中小農民は、後の民主政の基盤になっていくことになります。
移民問題は日本でも受け入れるべきか否かで問題になっていますね。経済規模は大きくなるが、イギリスのEU脱退の時にように移民問題がネガティブに出るのか、それは誰にもわからない課題となっています。
公共事業
そしてペイシストラトスは公共事業も積極的におこないました。
神殿などの整備をおこなって、パンアテナイヤ祭などの祭典も盛大におこないました。
これらはペイシストラトスの権威を市民にみせる目的もありましたが、市民は神殿や祭典を通じて「アテネ人」の意識を持つようになり、ポリスへの所属感と愛国心を育てるのに貢献しました。
僭主政治の崩壊
ペイシストラトスの僭主政治は長期にわたって安定していましたが、死後それらは息子に継承されました。
後を継いだ息子ヒッピアスは権力を握った後、次第に暴君化していきアテネは混乱してしまいます。
独裁者が世襲で上手くいかないのは歴史が証明していますからね。
不満が限界に達したアテネ市民たちは前510年に蜂起して、ヒッピアスを追放してしまいました。
これでアテネの僭主政治は終わりを告げて、結果、僭主政治が上手く機能したのはペイシストラトスの一代限りとなりました。
クレイステネス
平民派クレイステネス
民主政が一歩後退する形となった僭主政治が終わった後、貴族と平民との対立が再度起きて軍隊を投入するほど加熱していました。
その中で平民派として支持を集めていたのがクレイステネスという人物でした。
クレイステネスは貴族派によって一度は国外に亡命するも、平民派が貴族派との激しい攻防戦を勝ち抜いてクレイステネスを呼び戻すことに成功します。
ここからクレイステネスはそれまでの貴族政を改めて民主政への改革を進めていきました。
部族制改革
SQ:なぜ血縁から地縁に変更したのか?
アテネでは評議会などの議員の選出は、血縁によって分けられた4つの部族から選出される4部族制に基づいていました。
血縁・・・血の繫がり
「血縁」すなわち「血のつながった一族」要は「貴族」ですね。
この血縁関係によって議員が選出されていたので、貴族が選出されやすい仕組みになっていたんです
なのでクレイステネスは貴族有利の制度を変えるために、血縁ではなく、住んでいる地域(地縁)に基づいて選出する方法を考えました。
それがアテネ全土を村落を基盤とする区(デーモス)に分割して、「沿岸部・市域・内陸部」を組み合わせて一つのグループ(部族)をつくりました。
これを全体で10のグループつくる、いわゆる10部族制を設置しました。
そしてこの部族を役人や議員の選出基準にするだけでなく、軍隊の編成基準にすることでポリスの運営が組織化されることになりました。
これによって、平民は貴族に支配されずに血統や貧富の差にも関係なく、所属する部族を通じて政治に直接参加することができるようになったんです。
クレイステネスは各部族に選出議員の定数を設けて、五百人評議会をつくりました。
この五百人評議会が提出する議案を、市民の全体集会である民会で審議・可決するという制度を整えました。
これらの改革によって、平民が本格的に政治に参加できるようになり、アテネ民主政はようやくスタートを切っていったわけです。
陶片追放
このクレイステネスによる民主政が始まった同時期に、ある問題が危惧されるようになります。
再び僭主(独裁者)が現れたらどうしよう、、、
以前のような僭主政治が起こるとせっかく積み上げてきた民主政が水の泡です。
そこで僭主の出現を防ぐためにおこなわれたのが、陶片追放(とうへんついほう)という制度です。
これは毎年春に全市民がアゴラ(広場)に集まって、僭主になりそうな人物名を陶片(オストラコン)に刻んで投票するという制度です。
そして投票数が6,000票以上集まった時に、最も得票数が多かった人物を10年間国外追放にしてしまうんです。
これによって僭主の出現は防止できますが、数ある政治家がこれによって国外追放となってしまいました。
中にはペルシア戦争で英雄となったテミストクレスも人気を得過ぎた余り、陶片追放になっているんですよ。
でも注意すべき点は、陶片追放になったとしても市民としての権利と財産は保護されていて、ポリスの緊急事態には呼び戻されることもあったみたいなんです。
なので、あくまでも単に「僭主の出現を防ぐ」ことに固執した制度であることがわかりますね。
まとめ
MQ:アテネはどのような経緯で民主政が出現したのか?
A:貴族と平民の間の激しい対立を調停する形で、平民に不利益をもたらさない制度が次第に確立されていった。貴族との対立は続いたものの、最終的には平民派の断固たる改革により、アテネの民主政の基礎ができあがった。
今回はこのような内容でした。
次回は民主政が始まったアテネを含めたギリシアにアケメネス朝ペルシアが侵攻してくるピンチが訪れます。
このペルシア戦争でギリシアはどうなってしまうのか?
それではお楽しみに!
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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