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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は、オスマン帝国の動揺です。なぜ19世紀のオスマン帝国では各地で自立の動きが強まって、列強の介入を招くことになったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:19世紀のオスマン帝国では、なぜナショナリズムが強まり、列強の介入を招いたのか?
カルロヴィッツ条約後のオスマン帝国
1699年、第2次ウィーン包囲を失敗したオスマン帝国は、オーストリア(ハプスブルク家)との戦争に敗れてカルロヴィッツ条約を結びました。
そして、このカルロヴィッツ条約はオスマン帝国にとって大きな転換点になりました。
それまでのオスマン帝国は征服戦争によって領土を拡大していました。
しかし、この条約で領土を割譲して以降は、積極的な拡張が難しくなっていき、外交によって帝国の維持を図るようになっていきました。
つまり、オスマン帝国はこれ以降、「拡大する帝国」から「維持する帝国」へ変化していったんです。

もっとも、この時点ですぐに帝国が崩壊したわけではありませんでした。むしろ、オスマン帝国は18世紀の間は依然として広大な領土を支配する強国でした。ところが、その足元では少しずつ変化が始まっていました。

ワッハーブ運動(アラビア半島)
SQ:なぜアラビア半島でワッハーブ運動が広がったのか?
18世紀半ば、支配下のアラビア半島の中央部では、イブン=アブドゥル=ワッハーブというイスラーム教徒がある活動を始めました。
彼は、幼いころからアラビア半島各地を旅して、当時のイスラーム社会が「本来の教えから離れてしまっている」と考えました。
特に、神秘主義(スーフィズム)や聖者崇拝などを批判して、預言者ムハンマドの時代の純粋で厳格なイスラーム教に戻るべきだと主張しました。
こうした考えに賛同して活動した人々をワッハーブ派と呼びます。

ちなみに、この運動に反対した人たちが付けた呼称らしいですよ。
ワッハーブ派は中央アラビアの有力豪族であったサウード家の保護を受けて、結びついていきました。

このサウード家は後に現在のサウジアラビアを建国して、現在も王家として続いているんですよ。「サウジ」はサウード家のことを指すんですよ。
強大な経済力と軍事力を手に入れたことで、ワッハーブ運動は急速に拡大していき、やがて独自のワッハーブ王国を建国してしまうほどに成長していきました。
さらにワッハーブ派は、イスラーム教の聖地であるメッカとメディナを占領して支配下に置きます。
当時、オスマン帝国ではスルタンが「イスラーム世界の守護者」としての権威を持っていました。
なので、このワッハーブ派による聖地占領は、スルタンの支配を否定することになったんです。
オスマン帝国にとって、このワッハーブ運動は単なる地方反乱ではなく、帝国の存在意義そのものへの挑戦になったんです。

ワッハーブ派の勢力が拡大したとき、イスタンブルの中央政府は困惑したそうですよ。なぜなら帝国が広すぎて中央政府からアラビア半島奥地を直接統治するのが非常に難しかったからです。当時の連絡手段はラクダと隊商が頼りだったので、イスタンブールからアラビア半島の内陸部まで命令を届けるだけでも大変だったんです。巨大帝国ほど周辺部の統治が難しいという問題が、ここで表面化したんです。
イブン=アブドゥル=ワッハーブが原始イスラームへの回帰を主張したことに加え、その考えが中央アラビアの有力豪族であるサウード家の支援を受けて経済力と軍事力を得たため、アラビア半島各地へ急速に広がった。

ムハンマド=アリーの台頭(エジプト)
ムハンマド=アリーの台頭
オスマン帝国の動揺をさらに大きくしたのがエジプトでした。
1798年、ナポレオン率いるフランス軍がエジプトへ遠征します。
最終的に、フランス軍はイギリスとオスマン帝国の反撃によって撤退しましたが、この戦争によってエジプト社会は大きく揺れ動くことになりました。
その混乱の中から頭角を現したのが、オスマン軍の傭兵部隊の指揮官だったムハンマド=アリーという人物です。

彼はもともとは無名の軍人でしたが、カイロ市民やイスラーム指導者たちからの支持を得て、エジプト総督にまで出世した人物でした。
名目上はオスマン帝国の地方総督でしたが、独自の政策を進めることができるほど、大きな権限を与えられていました。

それだけオスマン帝国には直接統治できるほどの力が残っていなかったんです。なので、1805年を事実上の「ムハンマド=アリー朝」の始まりとしているそうですよ。

近代化政策
SQ:ムハンマド=アリーはなぜ「中東の明治維新」と呼ばれるのか?
ムハンマド=アリーはエジプトそのものを作り変える国家改造に乗り出します。
まず、それまで有力者が独占していた徴税請負制を廃止して、政府が直接税を集める仕組みに変えました。
さらに、全国で土地調査をして、新しい地租の制度を導入します。
これによって、政府の財政基盤は大きく強化されることになりました。
農業では綿花栽培を奨励して、ナイル川の灌漑設備も整備しました。
綿花はヨーロッパ市場で高く売れる商品だったため、エジプト経済は急速に成長します。
これを政府による専売にしたことで、莫大な利益を軍事や産業の育成に投入されることになりました。

また、ヨーロッパの技術を積極的に導入して、紡績工場や兵器工場、造船所などの建設もおこないました。
加えて、外国人技術者を招くだけでなく、若者をヨーロッパへ留学させて最新の知識を学ばせました。
軍事面では、それまでの傭兵中心の軍隊ではなく、ヨーロッパ式の近代軍も育成し、徴兵制を導入して常備軍を置いたことで、エジプト軍は中東で最強クラスの軍隊に成長していきました。
こうして行政改革、産業育成、教育振興、軍制改革を同時に進めた結果、エジプトは急速な近代化を遂げることになったんです。

ここまでの流れは、日本史を学んだ人なら、どこか見覚えがあるかもしれません。
政府主導で産業を育成し、軍隊を近代化し、西洋の知識や技術を取り入れる姿は、約半世紀後に日本で行われた明治維新の「富国強兵」や「殖産興業」と非常によく似ているんです。
しかも、これらの改革は外国からの借金に大きく頼ることなく進められました。
そのため、ムハンマド=アリーは「近代エジプト建設の父」と呼ばるようになり、「中東の明治維新」の先駆者として高く評価されているんです。

行政改革・産業育成・教育振興・軍制改革を政府主導で進め、西洋の知識や技術を取り入れながらエジプトの近代化を実現したため。
マムルーク勢力の排除
しかし、改革は順調なことばかりではありませんでした。
ムハンマド=アリーは、長年エジプトで大きな影響力を持っていたマムルーク勢力を排除しようと考えます。
マムルークとは中世以来続いていた軍事貴族集団で、エジプト各地で強い権力を持っていました。
そこで、彼はワッハーブ派討伐軍の壮行会という名目で、マムルークの有力者たちを城塞の式典に招待します。
しかし、式典の途中で出口を封鎖して一斉攻撃を命じ、数百人に及ぶマムルーク指導者を虐殺してしまいます。
これによって、エジプトの旧支配層は事実上壊滅することになりました。
この事件は「城塞の謀計」と呼ばれて、ムハンマド=アリーは改革の邪魔になる旧勢力を一掃することで、自らの権力を確立していきました。

ムハンマド=アリー朝の成立
強大化
着実に勢力を拡大していったムハンマド=アリーは、オスマン帝国が直面していた問題の解決にに協力していました。
まずは、アラビア半島で勢力を拡大していたワッハーブ派を討伐します。
実際の遠征を率いたのは息子でしたが、近代的な訓練と装備を備えたエジプト軍は、ワッハーブ王国を打ち破って、オスマン帝国の権威回復に大きく貢献しました。
さらに1820年代には、金や奴隷の供給源となるスーダンへ進出して、その地域を支配下に置きます。

より大規模な軍隊を維持するのが目的でした。
続くギリシア独立戦争でも、オスマン帝国の要請に応じて軍を派遣しました。
このように、ムハンマド=アリーは単なる地方総督ではなく、オスマン帝国が最も信頼する強大な協力者へと成長していったんです。

エジプト=トルコ戦争
しかし、ここから両者の関係は大きく変化していくことになります。
ムハンマド=アリーは、ワッハーブ派討伐やギリシア独立戦争への出兵という大きな貢献の見返りとして、シリアの支配をオスマン帝国に求めました。

シリアは地中海交易や軍事上の要衝だったので、エジプトの発展には不可欠な地域だったんです。
ところが、オスマン帝国はこの要求を拒否してしまいます。
そこで1831年、ムハンマド=アリーは息子率いるエジプト軍をシリアへ進撃させます。
こうして始まったのが、第1次エジプト=トルコ戦争です。
この戦争では、近代化されたエジプト軍はオスマン軍を圧倒していき、シリアだけでなくアナトリア方面にも進軍していきました。
オスマン帝国は首都イスタンブルまで脅かされてしまい、シリアの統治権を認めざるを得ない状況になりました。
こうして、シリアを獲得したムハンマド=アリーでしたが、この出来事はヨーロッパの列強諸国を不安にさせてしまいました。
もし、エジプトがオスマン帝国を完全に倒してしまうと、中東の勢力均衡が大きく崩れてしまうので、オスマン帝国を上手く利用していた列強諸国がエジプトを警戒し始めたんです。

そのような状況で、シリアを奪還しようとしたオスマン帝国が再び出兵したことで、第2次エジプト=トルコ戦争が起こります。
この戦争でも当初はエジプト軍が優勢でしたが、エジプトを警戒していたイギリスがオスマン帝国側に付いたことで、他の列強諸国もオスマン帝国側に付いて本格的に介入してくることになりました。
そして、エジプト軍はオスマン帝国・イギリス連合軍に敗北してしまい、1840年のロンドン会議の結果、ムハンマド=アリーはシリアから撤退することになりました。
でもその代わりに、エジプトとスーダンの総督を世襲できる権利が認められたことで、ムハンマド=アリー家による支配が国際的に認められることになりました。
こうして、ムハンマド=アリー朝が正式にエジプトに成立することになったんです。

この出来事は、19世紀の国際社会では軍事力だけでなく、列強との外交関係や勢力均衡も決定的に重要だったことをよく示しています。
そして同時に、オスマン帝国の衰退とエジプトの台頭が世界に強い印象を与えた出来事でもあったんです。

ギリシア独立と民族主義の広がり
一方、バルカン半島でも大きな変化が起こっていました。
18世紀末に起こったフランス革命は、「民族が自らの国家をつくるべきだ」という民族主義の考え方をヨーロッパ各地に広めました。
その影響を受けて、1820年代に始まったのがギリシア独立運動でした。
当時のギリシアは長期間オスマン帝国の支配下だったんですが、古代ギリシア文明をヨーロッパ文明の源流と考えていた人たちは、「ギリシア人を解放すべきだ」という強い共感から、ギリシアを支持しました。
こうしたヨーロッパ各地からの支持もあって、オスマン帝国は独力では反乱を鎮圧できず、エジプト総督ムハンマド=アリーに援軍を要請することになりました。
近代化されたエジプト軍は反乱を鎮圧するのに大きく貢献しますが、イギリス・フランス・ロシアがギリシア側に介入してきます。

イギリスとフランスは「エジプトの強大化を危険視」して、ロシアは「正教会保護」のために介入してきました。
列強の介入によって、オスマン帝国・エジプト連合艦隊はナヴァリノ海戦で大敗してしまいます。
こうして、ギリシアは1830年に独立を達成することになりました。
この成功は帝国内のセルビア人、ルーマニア人、ブルガリア人などに大きな衝撃を与えることになり、オスマン帝国内の民族主義を刺激する象徴的な出来事になりました。

同時に、これは当時のウィーン体制を動揺させる出来事にもなりました。

東方問題
SQ:なぜオスマン帝国問題は「東方問題」と呼ばれたのか?
さっきの復習になりますが、エジプト=トルコ戦争の結果、ムハンマド=アリーはエジプトとスーダン総督の世襲を認められましたよね。
しかし、彼が強く望んでいたシリアの支配は認められませんでした。
その理由は、ヨーロッパ列強諸国がエジプトの強大化を警戒したからです。
もし、エジプトがシリアまで支配すれば、オスマン帝国に代わる強大な国家が東地中海に誕生することになります。
一方で、列強諸国はオスマン帝国そのものが崩壊することも望んでいませんでした。
オスマン帝国が完全に解体されれば、その領土をめぐって列強同士の争いが激しくなって、ヨーロッパの国際秩序そのものが不安定になる危険があったからです。
こうして、弱体化するオスマン帝国をめぐって、ヨーロッパ列強諸国が介入し続ける構図が出来上がっていきました。
これをヨーロッパ側で「東方問題」と呼びました。

しかし、この東方問題は単なるオスマン帝国の国内問題ではありませんでした。
19世紀に入ると、オスマン帝国の支配下にあったギリシア人やスラヴ人、アラブ人などの民族が独立を求めて動き始めます。
また、エジプトのように事実上の自立を進める地域も現れました。
こうした動きに対して、ロシア・イギリス・フランス・オーストリアなどの列強がそれぞれの利益のために介入してきます。
・ロシア・・・黒海から地中海へ進出できる不凍港の獲得を目指す「南下政策」、正教会を信仰するバルカン半島のスラヴ系諸民族の保護
・イギリス・・・最大の植民地であるインドとの交通路の守護
・フランス・・・エジプトでの権益確保
・オーストリア・・・バルカン半島での影響力拡大
特に、激しく対立したのがロシアとイギリスでした。
ロシアが地中海や中東に進出すれば、インドへの航路や中東市場への影響力が脅かされるため、イギリスはその拡大を阻止しようとしたんです。
他の列強諸国の思惑も重なったことで、東方問題は列強諸国を巻き込んだ複雑な構図になっていきました。
そのため東方問題は、衰退するオスマン帝国をどう扱うかという問題であると同時に、ウィーン体制以来維持されていたヨーロッパの勢力均衡を揺るがす国際問題でもあったんです。

もし、一国だけがオスマン帝国の領土や利権を独占すれば、列強間の力のバランスが崩れてしまい、新たな戦争が起こる危険がありますからね。
こうして、東方問題は19世紀のヨーロッパ外交の最大の課題になっていきました。
そして、やがてバルカン半島をめぐる対立に発展していき、第一次世界大戦が起こることになります。

オスマン帝国が弱体化するなかで、その領土や利権をめぐってヨーロッパ列強諸国が介入し、勢力争いを繰り広げるようになったため。
まとめ
MQ:19世紀のオスマン帝国では、なぜナショナリズムが強まり、列強の介入を招いたのか?
A:フランス革命の影響で帝国内のギリシア人やスラヴ人などに民族主義が広がって独立運動が活発化し、さらにオスマン帝国が弱体化したことで、領土や利権をめぐってロシア・イギリス・フランスなどの列強が介入するようになったため。

今回はこのような内容でした。

次回は、東方問題からオスマン帝国が経済的にヨーロッパ列強に従属することについてみていきます。経済的な従属化はどのように進められていったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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