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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は、イランとアフガニスタンの動向についてです。ヨーロッパ列強諸国はこの地域にどんな影響を与えたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:ヨーロッパ列強諸国はこの地域にどんな影響を与えたのか?
みなさんは「植民地」と聞くと、インドや東南アジア、アフリカを思い浮かべるかもしれません。
しかし、19世紀の西アジアでは、直接植民地にはならなかったにもかかわらず、列強の影響下に置かれていった国々がありました。
その代表例がイランとアフガニスタンです。
この二つの国は、ロシアとイギリスという二大列強の思惑の間で揺れ動きながら、自国の独立を守ろうとしました。
今回は、イランとアフガニスタンがどのような道をたどったのかを見ていきましょう。
ガージャール朝イラン
サファヴィー朝滅亡後のイラン
18世紀初め、イランで長く続いたサファヴィー朝では、政治闘争による混乱が続いて王朝の権威が低下していました。
そんな中、支配下だったスンナ派のアフガン人は、王朝からシーア派への転向を要求されたことに反発して反乱を起こします。
サファヴィー朝の統制力が弱まっていたので各地で混乱が続いてしまい、イランは長い内乱状態に陥ってしまいました。

ガージャール朝の建国
そして、最終的にそんな混乱を収めたのが、トルコ系遊牧民のガージャールと呼ばれる部族でした。
カージャール部族は各地の遊牧民をまとめていき、18世紀末にテヘランを首都とするガージャール朝を建国しました。

現在もイランの首都はテヘランですが、その地位はこの時代に確立されたんですね。
ただし、ガージャール朝は決して強力な中央集権国家ではなかったんです。
シャー(国王)は存在していましたが、直接支配していたのは主要都市とその周辺に限られていました。
地方では遊牧部族の族長や有力者が大きな権力を持ったままで、それぞれ半独立状態が続いていました。
つまり、見た目は統一国家でも、実際には国内の統制が十分に取れていなかったんです。

ロシア=イラン戦争と不平等条約
ロシア=イラン戦争
そして、そこへ外から大きな圧力が加わることになります。
それがロシアの南下政策でした。
19世紀になると、ロシアは黒海やカフカス方面への進出を進めていきました。
そして、ロシアが目を付けたのが、ヨーロッパとアジアを結ぶ要衝であるコーカサス地域でした。

ここは現在のジョージアやアルメニア、アゼルバイジャンなどが含まれています。
ロシアは南下政策の一環としてコーカサス地方への支配を強めようとして、ガージャール朝イランと第1次イラン=ロシア戦争を起こします。
その結果、ガージャール朝イランはロシアに敗北してしまい、ジョージアやアゼルバイジャン北部を失うことになりました。
ガージャール朝はこれを受け入れられず、領土の回復を目指して第2次ロシア=イラン戦争が起こします。
しかし、この戦争でもガージャール朝は敗北してしまい、最終的にトルコマンチャーイ条約が結ばれました。
この条約によってガージャール朝は南コーカサスの広大な領土を失ってしまい、北アルメニアもロシアへ割譲することになってしまいました。

さらにトルコマンチャ―イ条約では、ロシア人に対する治外法権(領事裁判権)を認めさせられます。

イラン国内のロシア人の家屋や店舗、倉庫にはイラン当局が自由に立ち入ることができなかったんですよ。
そして、同時に関税自主権も失ってしまい、自国産業を守るための経済政策も自由にできなくなってしまいました。

みなさんは日本史で日米修好通商条約を学んだと思いますが、その際に問題となったのも領事裁判権と関税自主権でした。実はイランは日本より半世紀以上も早く、同じような不平等条約を押し付けられていたんです。
さらに問題だったのは、この特権がロシアだけに与えられたわけではなかったことでした。
イギリスなどの列強とも通商条約を結ぶことになり、ガージャール朝は次第に列強諸国による経済的・政治的な影響を強く受けるようになっていきました。

しかも、当時のガージャール朝は列強にさまざまな利権を与える一方で、国内では重税を課していたので、民衆の不満も高まっていました。
こうして19世紀のイランはガージャール朝のもと、戦争での敗北による領土割譲だけでなく、不平等条約によって主権そのものが大きく制限されることになってしまったんです。
ロシアとイギリスという二大列強のはざまで翻弄された結果、イランは経済的・政治的な従属を深めていくことになりました。

これは後にイランで反外国運動や立憲革命が起こる重要な背景にもなっていきました。

バーブ教の反乱
列強の圧力が強まる一方で、先ほども説明した通り、イラン国内でも民衆の不満が高まっていました。
増税や経済の混乱によって、農民や職人、中小商人たちは苦しい生活を強いられていました。
こうした社会不安の中で誕生したのがバーブ教という宗教でした。
このバーブ教はイスラーム教のシーア派から生まれた新しい宗教で、教祖であるバーブは自らを神と人々を仲介する存在と主張して、救世主(マフディー)の再臨を説きました。

「バーブ」とは神と人々を仲介する「門」を意味し、そう自称したそうです。
バーブ教は、男女平等や階級差別の廃止、租税や私有財産の廃止による貧富の差の解消など、当時の社会問題の改革を訴えました。
なので、苦しい生活を送っていた農民や商人を中心に多くの支持を集めて、バーブ教は急速に勢力を拡大していました。

しかし、こうした宗教運動は、ガージャール朝にとって大きな脅威になり、バーブ教徒を危険だと判断して、厳しい弾圧を開始しました。
各地でバーブ教徒たちによる反乱や武装蜂起が起こりましたが、政府軍はこれを徹底的に鎮圧して、バーブ自身も逮捕・処刑され、多くの信徒が虐殺される結果となりました。

その後、弟子によって、より穏健な宗教であるバハーイー教へと発展し、現在でも世界各地に信者を持っているんですよ。

列強による経済的従属
SQ:イランは植民地にならなかったにも関わらず、なぜ「列強への従属」が進んだのか?
ガージャール朝も生き残るためには近代化が必要だと感じていたので、軍隊の近代化や行政改革を進めようとしたました。
しかし、改革の必要資金が不足していたので、王朝はイギリスやロシアから借款を繰り返していました。

借款とは、外国や銀行からお金を借りることで、最初は便利な資金調達に見えました。
しかし、借金が増えていくとその分、返済義務も増えます。
その結果、王朝は見返りとして列強にさまざまな利権を与えるようになりました。
・鉄道建設権
・電信線敷設権
・銀行設立権
・石油開発権
このように、国家の重要な経済活動が次々と列強諸国の手に渡っていったんです。
こうして、経済を支配されていったことで、国家の主権は少しずつ失われていき、「経済的従属」と呼ばれる状態に陥っていくことになりました。
近代化の資金をイギリスやロシアからの借款に頼ったため、返済の見返りとして鉄道建設権や石油開発権などの利権を与えたため、経済を列強に支配される「経済的従属」が進んだ。

アフガニスタン
独立とグレートゲーム
一方、アフガニスタンでも大きな変化が起こっていました。
18世紀半ば、記事の冒頭でもあったように、アフガン人がサファヴィー朝に対して起こした反乱の後、ドゥッラーニー朝が建国されて、現在のアフガニスタン国家の原型が作られました。

ところが19世紀に入ると、アフガニスタンは2つの大国の対立の最前線になってしまいます。
それが、ロシアとイギリスでした。
ロシアは南下政策の一環として、中央アジアを南下してインド洋方面を目指していました。
一方のイギリスは、ロシアの南下政策から最大の植民地インドを守る必要に迫られました。
結果、ロシアとイギリスはお互いに攻防の最前線としてアフガニスタンを重要視するようになっていったんです。
このアフガニスタンをめぐる対立は「グレートゲーム」と呼ばれて、国家の存亡をかけた激しい勢力争いがおこなわれることになりました。

名前だけ聞くとスポーツ大会みたいですよね。
ちなみにグレートゲームでは外交官だけでなく、探検家や地理学者、時にはスパイまで活躍したんですよ。中央アジアの未踏地域を調査していた人物の中には、軍の諜報員だった人も少なくありませんでした。当時の地図作成は、単なる学術活動ではなく国家戦略そのものだったんです。

2度のアフガン戦争
ロシアがアフガニスタンへ近づくと、イギリスは強い危機感を抱きました。

もしロシアがアフガニスタンを支配すれば、その次はインドかもしれません。
そこで、イギリスはアフガニスタンへ軍事介入して、第1次アフガン戦争を起こします。
イギリス軍は首都カーブルを占領しますが、険しい山岳地帯での戦闘に加え、外国勢力への反発が強まって各地で激しい反英闘争が起こり、イギリス軍は予想外の苦戦を強いられました。
結果、撤退を余儀なくされたイギリス軍は、アフガン軍の攻撃を受け続けてしまい、インド兵や民間人を含む約1万6000人の部隊がほぼ全滅するという大敗北を喫してしまいました。

世界最強クラスといわれた大英帝国軍によって、アフガニスタンは、「帝国の墓場」と呼ばれるほど侵略が難しい土地として知られるようになりました。20世紀のソ連や、21世紀のアメリカも長期介入に苦戦したんですよ。

その後しばらくは、ロシアがクリミア戦争で敗れたことや、イギリスがインド大反乱への対応に追われたこともあり、両国ともアフガニスタンへの本格的な介入を抑えていました。
しかし19世紀後半になると、ロシアは中央アジアへの進出を再開し、再びアフガニスタンをめぐる緊張が高まります。
そこで、イギリスはアフガニスタンを勢力圏に組み込もうと、第2次アフガン戦争を始めました。
しかし、またしてもアフガン側の抵抗が激しく、苦戦が続きました。
それでも、イギリスはなんとか外交で交渉を有利に進めていき、最終的にアフガニスタンの外交権を掌握することに成功します。
こうして、アフガニスタンは形式上は独立国でありながら、外交面ではイギリスの強い影響下に置かれることになりました。
さらに、イギリス領インドとの境界線が引かれたんですが、現地の民族を考慮しないまま設定されてしまったので、民族によって分断されてしまうことになりました。

アフガニスタン最大の民族であるパシュトゥーン人の居住地域が分断されてしまったことで、現在のアフガニスタンとパキスタンの国境問題にも大きな影響を残しているんですよ。
このように、アフガニスタンは単なる辺境の国ではありませんでした。
19世紀にはイギリスとロシアという二つの大国が激しく争う戦略上の要地になり、そのときに引かれた国境線や大国の介入の影響は、現在でもアフガニスタンの不安定さの一因として残り続けているんです。

SQ:イギリスはなぜアフガニスタンそのものよりも、その外交権の掌握を重視したのか?
イギリスにとって重要だったのは、アフガニスタンがロシアと結んでインドへの脅威になるのを防ぐことでした。
しかし、第1次アフガン戦争で大きな損害を受けた経験から、アフガニスタンを直接支配することの難しさを理解していました。
そこで、イギリスはアフガニスタン国内の統治には深入りせずに、外交権だけを握ることで、ロシアとの関係をコントロールしようとしたんです。
つまり、「アフガニスタンを征服すること」ではなく、「ロシアの影響が及ばない緩衝地帯として利用すること」がイギリスの目的だったんです。
ロシアの影響力がアフガニスタンを通じてインドに及ぶのを防ぐため、アフガン戦争の経験から、直接支配ではなく外交権を掌握してアフガニスタンを緩衝国として利用しようとしたため。

まとめ
MQ:ヨーロッパ列強諸国はこの地域にどんな影響を与えたのか?
A:イランは不平等条約や借款によって経済的従属を深め、アフガニスタンは英露対立の中で外交権を制約されたため、両国とも植民地にはならなくても列強の強い影響下に置かれるようになった。

今回はこのような内容でした。

次回は、イギリスによるインドの植民地化についてみていきます。東インド会社は、南アジアでどんな活動をしていたんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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