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[14-1.3]オスマン帝国の改革

14-1.西アジアの変化
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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はオスマン帝国の改革についてです。経済的従属をうけた帝国はどのような改革をおこなったんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:危機に陥ったオスマン帝国はどんな改革をしたのか?

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セリム3世の改革

イェニチェリの弱体化

これまでの[14-1.1]オスマン帝国の動揺や[14-1.2]オスマン帝国の経済的従属でも話してきた通り、18世紀後半のオスマン帝国は、もう以前のような強国ではありませんでした。

ロシアやオーストリアとの戦争で敗北を重ねて、軍事力の低下が明らかになっていました。

列強諸国に敗戦を重ねたオスマン帝国の支配者たちは、

オスマン帝国
オスマン帝国

なぜヨーロッパ諸国に勝てなくなったのか?

を真剣に考えるようになります。

そして結果、軍事制度の立て直しを求めるようになりました。

18世紀後半のオスマン帝国 弱体化

ニザーム=ジェディード(新体制)

そこで、当時のスルタンだったセリム3世は、「ニザーム=ジェディード(新体制)」と呼ばれる軍事改革をおこないます。

セリム3世

当時、オスマン帝国の主力軍といえばイェニチェリでした。

イェニチェリはオスマン帝国最強の常備軍として恐れられていたんですが、時代が進むにつれて商売をしたり政治に介入するようになり、自分たちの利益を守る集団として暴動を起こすようになっていました。

さらに、イェニチェリとして得られる特権や利益につられて、縁故によって入隊する者も増えていました。

その結果、軍隊としての規律や戦闘力が低下してしまい、本来の精鋭ではなく、自分たちの利益だけを守ろうとする暴力集団へと変化してしまっていたんです。

なので、セリム3世はイェニチェリに代わるヨーロッパ式の近代軍を創設しようと改革に乗り出しました。

セリム3世 ニザーム=ジェディード

改革の失敗

しかし、セリム3世の軍事改革は順調には進みませんでした。

まず財政難だったので、新しい軍隊の維持に必要な費用を確保することが困難でした。

そのための増税も打ち出しますが民衆からの反発を招いてしまいます。

さらに、宗教指導者である知識人ウラマーはヨーロッパの知識や技術の導入を警戒し、地方有力者たちは地方の影響力の低下を恐れて、中央政府による改革や統制を望んではいませんでした。

つまり、この軍事改革に反対する勢力が各方面に存在していたんです。

新体制の反対運動

そしてついに、イェニチェリ軍団が新式軍の創設に反対して反乱を起こします。

グシャケン
グシャケン

イェニチェリは改革で特権が失われることを恐れて、「国を守る軍隊」でありながら「国家改革の妨害者」になってしまっていました。

この反乱によってセリム3世は追い詰められて退位することになり、その後、幽閉中に殺害されてしまいました。

グシャケン
グシャケン

こうして、近代化改革の第一歩は挫折に終わってしまいました。

セリム3世の改革失敗
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マフムト2世の改革

イェニチェリの解体

しかし、依然として帝国の危機は続いていたので、次のスルタンになったマフムト2世は大胆な行動に出ました。

マフムト2世

それがイェニチェリ軍団の解体です。

イェニチェリはこれに対して反乱を起こしますが、近代軍を率いたマフムト2世は短時間で鎮圧することに成功して、イェニチェリ軍は壊滅することになりました。

グシャケン
グシャケン

特権化して横暴なふるまいだったイェニチェリに対して、民衆も不満を持っていたので、民衆もスルタンを支持したそうですよ。長年オスマン帝国を支えてきた伝統的軍団が歴史の舞台から姿を消した瞬間でした。

こうして、姿を消したイェニチェリの代わりに近代的な常備軍を創設して、ヨーロッパ式の軍事制度を本格的に導入していきました。

また軍医学校や士官学校も設立して、多くの若者がヨーロッパに留学して近代知識を学びにいきました。

グシャケン
グシャケン

こうしてオスマン帝国では新しい知識人層が育ち始めることになります。

マフムト2世の改革 イェニチェリの解体

SQ:オスマン帝国の統治者は、なぜ軍制改革を最優先したのか?

SQ:オスマン帝国の統治者は、なぜ軍制改革を最優先したのか?

オスマン帝国が列強との戦争で敗北を重ねた原因が軍事力の低下にあると考えられ、特にイェニチェリの弱体化が深刻だったため、国家の存続を図るには軍制改革を最優先で進める必要があったから。

オスマン帝国の統治者は、なぜ軍制改革を最優先したのか?
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タンジマート

改革内容

そして、エジプト=トルコ戦争が起きた頃からオスマン帝国は、それまでの軍事中心の改革から、国家そのものを作り直そうとする大規模な近代化政策へと踏み出していきました。

この1839年から始まるこの改革を「タンジマート」(編成・再編成)と呼びます。

このタンジマートは単なる軍事改革ではありませんでした。

司法、行政、財政、教育、軍制など国家のあらゆる分野でおこなわれた総合的な近代化政策でした。

当時のオスマン帝国は、ヨーロッパ列強の圧力の高まりやエジプト総督ムハンマド=アリーとの戦争での苦戦などによって、帝国自体の存続が危ぶまれていました。

そこで、官僚たちはヨーロッパの制度を参考にしながら近代的な中央集権国家を築こうとしたんです。

タンジマート

ここで重要だったのは、宗教や民族の違いを超えて「帝国の住民を1つに」まとめようとしたことでした。

従来のオスマン帝国では、ムスリム(イスラーム教徒)が政治的に優位な立場にありました。

しかしタンジマートでは、ムスリムと非ムスリム関係なく、すべての国民を法の下で平等に扱う改革が進められていきました。

この思想を「オスマン主義」と呼びます。

つまり、

「トルコ人かギリシア人か」「アラブ人かセルビア人か」「ムスリムかキリスト教徒か」

ではなく、

「みなオスマン帝国の国民である」

という共通の意識を育てようとしたんです。

オスマン主義

なので、教育省の設置、銀行の創設、官営工場の建設、法律の整備など、多くの分野で近代化が進められました。

そして、この流れは後の憲法制定にもつながっていき、オスマン帝国は立憲国家への道を歩み始めていくことになりました。

グシャケン
グシャケン

これは後の青年トルコ革命やトルコ共和国の成立にもつながる重要な転換点だったんです。

●トルコ帽は近代化のシンボルだった!?

19世紀のオスマン帝国では、えんじ色の円筒形の帽子である「フェズ」が広く普及しました。

私たちから見ると単なる「トルコ帽」ですが、当時は重要な意味を持っていました。

地域や身分ごとに違っていた服装を統一し、「みんな同じ帝国臣民である」という意識を高める狙いがあったんです。

現代の制服や国家のシンボルに近い役割を果たしていたのかもしれませんね。

フェズ

改革の矛盾

SQ:「オスマン人」という共通の国民意識を育てようとしたにもかかわらず、なぜ民族運動は広がったのか?

しかし、タンジマートには大きな問題がありました。

改革によって非ムスリム住民の権利が拡大していくと、ムスリムの中から不満が生まれたんです。

ムスリム
ムスリム

なぜ今まで優位に立っていたのに、異教徒と同じ扱いを受けなければならないんだ!

という感情が広がりました。

一方で、非ムスリム住民の側も満足していたわけではなかったんです。

19世紀のヨーロッパでは民族主義が広がっていました。

なので、帝国内のセルビア人やギリシア人、ブルガリア人などが、オスマン帝国の一員として残るよりも独立国家を建設したいと考えるようになっていたんです。

つまり、帝国を一体化するためのタンジマートは、 かえって宗教や民族間で対立を深める結果になってしまいました。

さらに、列強諸国もキリスト教徒の保護を口実に、介入をさらに強めていき、オスマン帝国は内側からも外側からも揺さぶられることになりました。

SQ:「オスマン人」という共通の国民意識を育てようとしたにもかかわらず、なぜ民族運動は広がったのか?

タンジマートによる平等化がムスリムの反発を招き、さらにヨーロッパで広がった民族主義の影響で非ムスリム諸民族が独立を求めるようになったため。

「オスマン人」という共通の国民意識を育てようとしたにもかかわらず、なぜ民族運動は広がったのか?
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ミドハト憲法と議会

憲法制定と議会開催

こうした矛盾を抱えながらも、オスマン帝国の近代化改革は一つの到達点を迎えます。

それが、1876年に宰相のミドハト=パシャを中心に制定されたオスマン帝国憲法、いわゆる「ミドハト憲法」でした。

ミドハト=パシャ

この憲法は、タンジマートの集大成といえるもので、帝国内の多民族・多宗教問題への対応だけでなく、ヨーロッパ列強諸国に対して、

オスマン帝国
オスマン帝国

オスマン帝国も近代国家である!

という、近代国家である姿勢を示したかった意図がありました。

グシャケン
グシャケン

実は、このミドハト憲法はアジア初の近代的憲法だったんですよ。日本の大日本帝国憲法が制定されるのは1889年ですから、それよりも13年も早い制定だったんです。

ミドハト憲法 ミドハト=パシャ

SQ:ミドハト憲法はどのような国家を目指していたのか?

グシャケン
グシャケン

では以下の憲法の内容を読んで、どんな国家を目指したのか考えてみましょう。

ミドハト憲法(抜粋)

第3条:オスマン帝国の主権は、イスラーム最高のカリフである君主の人格に統合されており、オスマン家の最年長の男子が、古来の継承規則に従ってこれを継承する。

第8条:オスマン帝国の人民は、その宗教や宗派を問わず、すべて「オスマン人」と称される。

第11条:イスラームは国家の宗教である。ただし、公序良俗を害しない限り、帝国内で公認されている諸宗教の信仰の自由および従来認められてきた宗教上の特権は保障される。

第17条:すべてのオスマン人は、法律の前に平等であり、権利と義務について等しい。

第18条:官職に就くためには、国家の公用語であるトルコ語を知っていなければならない。

この憲法は、第8条で「宗教や宗派を問わず、帝国の人民はすべて『オスマン人』と呼ばれる」と定められ、第17条では「すべてのオスマン人は法律の前に平等である」と規定されていました。

これは、それまでイスラーム共同体(ウンマ)や民族ごとに分けられていた人々を、宗教や民族関係なく、「オスマン帝国の国民」として統合しようとするオスマン主義の理念を反映したものでした。

また、公認された宗教には信仰の自由が認められて、それまでの宗教的な特権も保障されました。

一方で、第11条では「イスラームは国家の宗教である」と定められていて、近代的な平等理念を取り入れながらも、帝国がイスラーム国家としての性格を維持していたことも分かります。

さらに、憲法に基づいて議会制度も導入されて、翌年には選挙がおこなわれて帝国議会が開催されました。

グシャケン
グシャケン

実は、このミドハト憲法はアジア初の近代的憲法だったんですよ。日本の大日本帝国憲法が制定されるのは1889年ですから、それよりも13年も早い制定だったんです。

SQ:ミドハト憲法はどのような国家を目指していたのか?

宗教や民族の違いを超えて人々を「オスマン人」として統合し、イスラームを国教としながらも法の下の平等と議会制度を備えた近代国家を目指していた。

ミドハト憲法はどのような国家を目指していたのか?

憲法の停止と議会解散

これによって、オスマン帝国はヨーロッパ型の立憲君主政は始まったかのように見えました。

しかし、この新しい政治制度には大きな弱点もありました。

憲法によって議会が開かれた一方で、第3条では主権がオスマンの君主(スルタン)にあるとされていたので、立憲政治を導入しながらもスルタンの権威が依然として強い状況でした。

グシャケン
グシャケン

スルタンは「国益に反する人物を国外追放できる」という権限まで持っていたそうですよ。

要は、近代的な憲法を持ちながらも、スルタンによる専制政治が完全には取り除かれていなかったんです。

ミドハト憲法の弱点 専制政治の残存

そして、その矛盾が露呈してしまったのが、ロシア=トルコ戦争(露土戦争)でした。

当時のスルタンだったアブデュルハミト2世は権限を利用して、憲法制定の立役者であったミドハト=パシャを国外へ追放してしまいました。

グシャケン
グシャケン

スルタンの権限を拡大して、専制政治を強化するのが目論見でした。

アブデュルハミト2世

戦争はオスマン帝国が劣勢になっていき、ロシア軍が首都イスタンブル近くまで迫る事態になります。

この混乱の中で、議会では中央政府やスルタンへの批判が強まっていきました。

これを危険視したアブデュルハミト2世は、1878年に議会を解散して憲法の運用を停止してしまいます。

戦争の結果、オスマン帝国は多くの領土を失うことになりましたが、スルタンの権威を帝国の内外に強く示すことになりました。

こうして、ミドハト憲法による立憲政治は、わずか2年足らずで幕を閉じましたが、「憲法によって権力を制限し、議会によって政治を行う」という理念をオスマン帝国にもたらすことになりました。

グシャケン
グシャケン

この経験は後の青年トルコ革命へと受け継がれることになり、1908年には憲法が復活することになります。ミドハト憲法は失敗した改革ではなく、近代トルコへと続く長い政治改革の第一歩だったんです。

アブデュルハミト2世 ミドハト憲法の停止 議会解散
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新オスマン人

列強による経済的従属

グシャケン
グシャケン

ここの項目は[14-1.2]オスマン帝国の経済的従属の内容になるので、復習になります。

しかし、タンジマートの時代には別の問題も進行していました。

ヨーロッパ列強諸国による経済的介入です。

通商条約の締結によってイギリスなどの工業製品が大量に流入し、伝統的な手工業は大きな打撃を受けました。

さらにクリミア戦争以降、政府は海外から多額の借金を重ね、財政破綻に追い込まれます。

結果、列強諸国に財政を握られてしまい、経済的な従属を強いられることになりました。

ヨーロッパ列強による経済的従属

新オスマン人の登場

こうした状況で、帝国内では危機感を抱いた知識人たちがいました。

それが「新オスマン人」と呼ばれる人たちでした。

グシャケン
グシャケン

彼らはタンジマートの教育改革によって生み出された新しい知識人たちだったので、そう呼ばれました。

ヨーロッパの自由主義思想の影響を受けた新オスマン人が、自由、祖国、国民、平等といった理念を掲げて、憲法と議会による政治を求めて改革運動を起こしました。

同時に、列強による介入にも対しても反対運動を起こします。

新オスマン人はその後、スルタンによる弾圧を受けますが、タンジマートの改革によって社会が変わり、その変化が次の改革を求める人たちを生み出して、後の近代化政策を推し進めていく原動力になっていきました。

新オスマン人

SQ:タンジマートによって育成された知識人たちは、なぜ政府を批判する立場へと変化したのか?

タンジマートによって新しい教育を受けた若い知識人たちは、ヨーロッパの自由主義や立憲政治の考え方を学びました。

しかし、現実ではオスマン帝国は列強の経済的介入によって財政を支配されてしまい、政治改革も十分に進んでいませんでした。

そのため彼らは、帝国の衰退を防ぐには政府主導の改革だけでは不十分だと考えて、憲法や議会の設立を求めて政府を批判するようになっていったというわけなんです。

SQ:タンジマートによって育成された知識人たちは、なぜ政府を批判する立場へと変化したのか?

タンジマートで育成された知識人が自由主義思想の影響を受け、列強への経済的従属や不十分な政治改革に危機感を抱き、憲法と議会による政治を求めて政府を批判したから。

タンジマートによって育成された知識人たちは、なぜ政府を批判する立場へと変化したのか?
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まとめ

MQ:危機に陥ったオスマン帝国はどんな改革をしたのか?

A:列強との戦争で弱体化した軍隊を立て直すために軍制改革を進め、さらにタンジマートによって行政・司法・教育など国家全体の近代化を進めるとともに、ミドハト憲法や議会を導入して近代国家への転換を目指した。

グシャケン
グシャケン

今回はこのような内容でした。

次回は、この時代のイランとアフガニスタンの様子についてみていきます。ヨーロッパ列強諸国の対立はこの地域にどんな影響を与えたんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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