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[14-1.2]オスマン帝国の経済的従属

14-1.西アジアの変化
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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回はオスマン帝国が列強諸国に経済的に従属していく過程をみていきます。なぜ、オスマン帝国は列強諸国に経済で支配されてしまったんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:なぜオスマン帝国は列強に経済的に支配されたのか?

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オスマン帝国という巨大市場

SQ:列強がオスマン帝国との通商条約を求めた最大の目的とは?

19世紀になると、ヨーロッパでは産業革命が進んでいました。

工場では大量の工業製品が生産されるようになり、それらを売るために国内だけでなく海外市場が必要になっていきました。

また同時に、生産をさらに拡大していくために、工場で使う原料の供給地も必要になっていきました。

そこで、列強諸国が市場として注目したのが、西にあったオスマン帝国だったんです。

オスマン帝国は広大な領土を持ち、人口も多く、ヨーロッパ・アジア・アフリカを結ぶ交通の要衝に位置していました。

ヨーロッパ列強諸国にとって、オスマン帝国はまさに理想的な市場だったんです。

列強がオスマン帝国との通商条約を求めた最大の目的とは?

なので、ヨーロッパ諸国はこぞってオスマン帝国との間で貿易のルールを決める通商条約を結んでいきました。

そして、それまですでにあったカピチュレーション(領事裁判権や関税上の特権など)をさらに拡大していきました。

その結果、ヨーロッパ商人はオスマン帝国の中で、自由に有利な条件で商業活動ができるようになっていきました。

SQ:列強がオスマン帝国との通商条約を求めた最大の目的とは?

自国の工業製品を売る市場と原料の供給地として、領土が広大かつ人口が多いオスマン帝国を利用したかったため。

列強がオスマン帝国との通商条約を求めた最大の目的とは?
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イギリス製品の流入

このようにして、ヨーロッパの商人や企業がオスマン帝国内で活発にビジネスをおこなうようになっていきます。

一方、オスマン帝国内では、ヨーロッパに輸出する綿花やタバコなどの商品作物の生産が拡大していきました。

ここまで見ると、貿易が盛んになって、オスマン帝国内の経済が発展したように見えます。

しかし、問題は見返りとしてイギリス製の安価な綿製品などが、低い関税で大量に輸入されたことでした。

当時のイギリスは世界最大の工業国です。

機械化された工場で大量生産された綿織物は、職人の手工業で作られる製品よりも圧倒的に安かったんです。

グシャケン
グシャケン

町の小さなパン屋さんが大量生産する巨大チェーン店と価格競争をしなければならなくなったようなもんですね。

品質が同じ商品なら、消費者は安い商品の方を選びます。

なのでその結果、オスマン帝国内の伝統産業はイギリス製品の流入によって、次第に衰退していくことになりました。

グシャケン
グシャケン

実はこの現象はインドなど他の地域でも起きていました。産業革命を進めた国々は工業製品を輸出して、相手国は次第に原料の供給地へ変化していったんです。

このような関係は、一目見ると対等な貿易に見えましたが、実際には大きな力の差を生み出していくことになりました。

ヨーロッパ(イギリス)資本の流入
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エジプト経済の自立喪失

特にこの影響を強く受けたのが、オスマン帝国の属州だったエジプトでした。

総督だったムハンマド=アリーは、近代的軍隊の整備や工業化を進め、エジプトを強力な国家にしようとしました。

しかし、帝国とヨーロッパとの通商条約が適用されると状況が変わります。

ヨーロッパ商人が自由に出入りするようになったことで、エジプト政府の専売による利益が縮小していき、さらに関税自主権も失ったことで、イギリス製品などの流入によってエジプト産業も衰退していきました。

グシャケン
グシャケン

本来だったら、自国産業を育てるために輸入品へ高い関税をかけたいところですが、それができなくなってしまったんです。

現代でも発展途上国が産業を育てる際には保護政策をとることがありますが、当時のエジプトがそれをする前に、ヨーロッパなしには経済が回らないようにされてしまったんです。

こうして、強国となったエジプトでさえも、自立的な経済発展が困難になってしまいました。

エジプトの自立喪失
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スエズ運河の建設

建設と開通

この状況を打開しようとして、エジプトはさらに近代化を進めようとしていきます。

それが、スエズ運河の建設でした。

地中海と紅海を結ぶ細い地峡があり、ここを掘り抜けることができれば、ヨーロッパからアジアへの航路を劇的に短縮することができました。

それまで船はアフリカ南端の喜望峰を回らないと行けなかったんですが、スエズ運河が完成すればその必要がなくなり、通行料によってエジプトに莫大な利益がもたらされると考えられました。

グシャケン
グシャケン

当時の人々にとっては、現在の新幹線や高速道路の建設以上のインパクトをもつ世界的大事業だったんですよ。

そして1869年、ついにスエズ運河が開通します。

完成式典にはヨーロッパ各国の要人が招かれて、豪華な祝賀会が開かれて世界中から注目を浴びることになりました。

グシャケン
グシャケン

ちなみに、工事には数万人のエジプト農民が動員されたんですが、多くは半ば強制的な労働に従事させられ、炎天下の中で運河を掘り続けました。水の中に長時間浸かりながら働き、十分な休息も与えられない過酷な作業でした。畑の仕事を離れた結果、家族の生活が苦しくなる農民も少なくなかったんです。

スエズ運河建設

エジプト財政難とイギリスの運河支配

しかし、その豪華さの裏でエジプトの財政は深刻な状況になっていました。

スエズ運河の建設に加えて、祝賀行事や近代化事業にも莫大な資金が使われていたためでした。

しかし、当時のエジプトはヨーロッパ諸国との不平等条約によって関税自主権がなく、自由に関税を設定して財政を立て直すことができませんでした。

そのため、近代化を進めれば進めるほど、外国からの借金に頼らざるを得なくなっていたんです。

その結果、エジプトは膨大な債務を抱えて、借金が返済できなくなってしまいます。

債務返済に追われた政府は、ついに保有していたスエズ運河会社の株式を売却することになります。

スエズ運河の株式売却

SQ:イギリスはなぜエジプト財政やスエズ運河に強い関心をもったのか?

そして、これを見逃さなかったのがイギリスでした。

これはスエズ運河がイギリス帝国最大の植民地インドへの最短ルートになったからです。

グシャケン
グシャケン

スエズ運河を押さえることは、インドへの生命線を握ることを意味していました。

なので、当時のディズレーリ首相は、すぐにスエズ運河の株式を買収して経営権を握っていきました。

こうして、スエズ運河の利益は次第にイギリスやフランスへ流れるようになっていき、エジプトは運河が自国の領土にありながら、その利益を十分に受けられなくなっていきました。

加えて、イギリスとフランスは債務返済できないエジプトの財務管理にも介入して、エジプト財政を実質的に監督するようになります。

なので、エジプト政府は外国人の官僚を受け入れざるを得なくなり、国家運営の重要な部分がイギリス・フランスの影響下に置かれてしまうことになりました。

グシャケン
グシャケン

この時点ではまだエジプトが正式な植民地ではなく、財政の重要部分が外国に握られている状態でした。

国は独立状態でも、実際には自由が利かなかったので、経済的従属とはまさにこういうことだったんです。

SQ:イギリスはなぜエジプト財政やスエズ運河に強い関心をもったのか?

スエズ運河がイギリス最大の植民地であるインドへの最短航路であり、その支配がインドとの交通や貿易を守るうえで極めて重要だったため。

イギリスはなぜエジプト財政やスエズ運河に強い関心をもったのか?
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オスマン帝国の財政破綻

一方、本国のオスマン帝国も深刻な財政危機に陥っていました。

特に大きな負担となっていたのがクリミア戦争です。

この戦争では、ロシアと戦うために巨額の戦費が必要だったので、オスマン帝国はヨーロッパから借款(しゃっかん)を重ねていました。

借款・・・外国政府や外国の銀行からの借金

しかし、借金に頼る財政運営は長続きしません。

やがて返済能力を超える債務を抱えてしまい、1875年には事実上の財政破綻に追い込まれてしまいました。

オスマン帝国の財政破綻

すると債権者である列強諸国は、返済を確保するために、オスマン帝国の主な税収を直接管理できるように迫ります。

結果、塩税やタバコ専売収入などの重要な財源が、列強諸国の債務管理機関の管理下に置かれることになりました。

グシャケン
グシャケン

いわゆる返済できなくなった際の「差し押さえ」というやつですね。

国家にとって税収は生命線です。その生命線を外国人の債権者に握られてしまったわけです。

こうして、オスマン帝国も政治的には独立していても、経済的には列強への依存から抜け出せない状況になってしまいました。

オスマン帝国の経済的従属

SQ:オスマン帝国とエジプトは、なぜ経済的従属から抜け出せなかったのか?

これには大きな理由が2つあります。

①不平等な通商体制によって国内産業が弱体化

②近代化や戦争のための借金が膨らみ、財政を列強に握られた

以上のことから、経済的従属とは単なる軍事力の差だけで生じたのではなく、貿易、投資、借款、財政管理といった経済の仕組みを通じて進行していったものだったんです。

SQ:オスマン帝国とエジプトは、なぜ経済的従属から抜け出せなかったのか?

不平等な通商体制によって国内産業が衰退し、近代化や戦争のための借金で財政を列強に支配されたため。

オスマン帝国とエジプトは、なぜ経済的従属から抜け出せなかったのか?
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まとめ

MQ:なぜオスマン帝国は列強に経済的に支配されたのか?

A:列強との不平等な通商体制によって国内産業が衰退し、さらに近代化や戦争のために外国からの借金に頼った結果、財政を列強に管理されるようになったため、経済的に支配されるようになった。

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

次回は、オスマン帝国の改革についてみていきます。列強の経済的支配によって危機に直面したオスマン帝国はどのような改革をおこなったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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