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[12-2.2]北アメリカ植民地

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は北アメリカ植民地の動向についてみていきます。ヨーロッパ諸国による北アメリカ大陸の勢力図はどのように変化していったんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:北アメリカ植民地の勢力図はどのように変化していったのか?

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ヨーロッパ諸国の進出

16世紀のヨーロッパ大航海時代スペインが中南米や北米に進出していったのをきっかけに、ヨーロッパ諸国が後を追いかけるように、次々と北アメリカ大陸に進出していきました。

17世紀には、イギリス人が東部沿岸に、フランス人がカナダやルイジアナに入植して植民地を建設していきました。

広大な領土を支配していたフランス植民地では、もともと住んでいた先住民と共に暮らしながら関係を築いていき、毛皮を集めてヨーロッパに輸出する産業をしていました。

逆に、イギリス人は農業が中心で、私有地をどんどん拡大していったので、先住民との対立が絶えませんでした。

グシャケン
グシャケン

フランスは広大な植民地を支配していましたが、人口自体は少なかったので、イギリスの植民地に比べて影響力は限定的でした。

北アメリカ植民地 フランスとイギリスの進出

そして18世紀になると、ヨーロッパではイギリスとフランスの覇権争いが激しくなっていき、北アメリカでも両国の植民地が衝突することになりました。

これが「フレンチ=インディアン戦争七年戦争の北アメリカ戦線)」と呼ばれるものでした。

結果はイギリスが勝利して、フランスは北アメリカから撤退してしまうことになりました。

戦勝国のイギリスでは、ライバルであるフランスが北アメリカからいなくなったことで、イギリス植民地が拡大して統治が安定するようになりました

しかし、規模が拡大したことによって、経済的にはイギリス本国への依存度は下がっていくことになりました。

フレンチ=インディアン戦争(七年戦争)
北アメリカ植民地の勢力図の変化
グシャケン
グシャケン

この依存度の低下が、後に北アメリカ植民と本国との溝を深めていくことになります。

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イギリスの13植民地

植民地の独立性

イギリスは、北アメリカ大陸の東海岸(大西洋岸)沿いに13植民地(13か所の植民地)を建設しました。

これらは統一された1つの植民地ではなく、それぞれの植民地独自の議会を持っていて、一定の自治を認められた小さな植民地の集まりだったんです。

13植民地
13植民地
グシャケン
グシャケン

では、なぜ13植民地は、それぞれが独立した存在だったんでしょうか?

それは、イギリス本国の植民地政策が一貫していなかったことが大きい要因でした。

イギリスは最初から,

13の植民地をまとめて統治しよう!

と考えていたわけではなく、植民地はそれぞれ違う目的や背景で建設されていました。

例えば、バージニア植民地という所は、タバコなどの商品作物の栽培を目的企業が王室から特許をもらって統治していた植民地でした。

マサチューセッツ植民地は、イギリス国教会から宗教的迫害を受けたピューリタンたちが、自分たちの信仰を守るために海を渡って築いた植民地でした。

このように、植民地が建設された理由や目的、統治者がそれぞれ違っていたので、それぞれの植民地が独自のルールを作って、独自の議会で自治をおこなうようになっていったんです。

あとは、北アメリカ植民地がイギリス本国から大西洋を挟んで遠く離れていたので、細かい統治が難しく、現地の人々にある程度の自由を与えるしかなかったのも要因の一つでした。

グシャケン
グシャケン

この「バラバラだけど自立している」状態が、のちのアメリカ独立戦争や合衆国憲法の形成にも大きな影響を与えることになります。

13植民地の独立性

地域ごとの特徴

北部(ニューイングランド)

・ピューリタン(清教徒)が信仰の自由を求めて入植

・自営農民が多く、タウン制による自治が発達

タウン制・・・村(タウン)ごとに住民が集まって、話し合い(タウン=ミーティング)で物事を決める制度

・字率が高く、新聞や大学(例:ハーバード大学)も早くから存在。

中部(ニューヨーク・ペンシルヴェニアなど)

・商業や大西洋での貿易が盛んで大商人が出現

・宗教的寛容さが特徴

南部(ヴァージニアなど)

・ヨーロッパ輸出用のタバコや綿花のプランテーション

・北米大陸やカリブ海の植民地輸出用の米のプランテーション

・黒人奴隷が労働力

・大土地所有者が多く、経済的には本国との結びつきが強い

SQ:なぜ北部では識字率が高かったのか?

グシャケン
グシャケン

ではここで、なぜ北部では他と比べて識字率が高かったんでしょうか?

北部(ニューイングランド)では、ピューリタン(清教徒)が信仰の自由を求めて入植していきましたよね。

彼らはプロテスタントとして、宗教上、自分自身で聖書を読まなければいけませんでした。

そして、特に聖書の内容を理解することが重視されていたので、読み書きの能力(識字力)がとても大切だったんです。

あと、北部ではタウン制という住民の自治が発達して、集まって話し合いする機会が多かったので、必然的に教育受ける必要性が高かったんです。

SQ:なぜ北部では識字率が高かったのか?

聖書を自ら読むことを重視するピューリタンの宗教的背景や、タウン制による住民自治の発達により、教育の必要性が高まったため。

なぜ北部では識字率が高かったのか?
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重商主義体制と植民地経済の発展

こうして、独自に建設された植民地でしたが、イギリス本国からは、本国の経済を良くするための補完装置として見られていました。

王政復古の時代には、航海法が改正されて、植民地とヨーロッパ諸国との貿易や、植民地同士の貿易であっても、イギリス本国を経由することが義務付けられて、植民地からの輸出品もイギリス本国が独占することになりました。

さらに、鉄鉱石などの資源は植民地から本国に輸出させて、加工した製品を植民地に輸入させるという方法を採ったことで、イギリス本国は莫大な利益を得ることにもなりました。

こうして、北アメリカ植民地は、イギリス本国の重商主義体制に組み込まれて、経済的に従う形になっていきました。

重商主義体制

しかし18世紀に入ると、北部や中部の植民地では人口が急増していき、林業や漁業、海運業が発展していき、大西洋をまたぐ貿易では大商人も現れるようになります。

こうして植民地の経済が発展していった結果、強力なイギリス海軍の保護もあって、本国の約3分の1に達するほどの経済力を持つほどに成長していくことになりました。

グシャケン
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この経済発展を背景に、本国からの規制に対する不満が溜まっていき、後のアメリカ独立戦争を引き起こすことになります。

北アメリカ植民地の経済発展
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まとめ

MQ:北アメリカ植民地の勢力図はどのように変化していったのか?

A:北アメリカ植民地の勢力図は、16世紀のスペイン進出に始まり、17世紀にはイギリスやフランスが本格参入した。18世紀のフレンチ=インディアン戦争を経て、フランスが撤退し、イギリスが東部一帯を支配する構図へと再編されていった。

グシャケン
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今回はこのような内容でした。

次回は、アメリカ独立戦争についてです。北アメリカ植民地はどのような経緯でアメリカ合衆国として独立することになったんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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グシャケン
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