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はじめに

前回はこのような内容でした


私たちは大航海時代というと、「ヨーロッパ人が海へ乗り出して世界を支配した時代」というイメージを持ちがちです。しかし実際には、当時のアジア、とくにインドは世界有数の経済力を誇る地域でした。ヨーロッパ人は最初から支配者だったのではなく、むしろ豊かなアジア市場に参入しようとした後発の商人でした。
今回は、ヨーロッパ諸国がどのようにアジア貿易へ参加し、そしてなぜインド支配へと向かったのかを見ていきましょう。
MQ:ヨーロッパ諸国はどのようにしてアジア貿易へ参入し、その主導権を握るようになったのだろうか?
世界経済の中心だったインド
インド産綿布
まず確認しておきたいのは、近世初めまでの世界において、インドは経済的に極めて重要な位置を占めていたということです。
インドは胡椒などの香辛料の産地として知られていましたが、それ以上に重要だったのが“インド綿布”でした。
当時のインド綿布は質が高く、色鮮やかなデザインで人気を集めていました。

現在でいえば、高品質でおしゃれな海外アパレルブランドのようなものです。
インドで生産された綿布は、東南アジア、西アジア、アフリカ、中国、日本、さらにヨーロッパにまで輸出されていました。
つまり、インドは単なる原料の供給地ではなく、世界的な工業製品の輸出国だったんです。

インド綿布に苦しんだヨーロッパ
私たちは産業革命と聞くと、「イギリスの工業製品が世界を席巻した」と理解しがちです。
しかし、18世紀前半まではそんな状況ではなかったんです。
ヨーロッパにはインド綿布の質に匹敵する製品を作る技術がありませんでした。
なので、ヨーロッパでインド綿布が求められて、大量のインド綿布が輸入されて、ヨーロッパの繊維産業は強い圧力を受けることになりました。
特に、イギリスではインド綿布が大流行しました。
あまりにも人気が高かったので、イギリス政府は国内産業を保護するためにインド綿布の輸入を制限することになりました。

当時は、インド綿布の着用まで制限されたんですよ。現代で例えるなら、「海外製スマートフォンが優秀すぎて国内メーカーが売れなくなったので、政府が利用を制限した」というような話です。

もちろん、それだけでは問題は解決しませんでした。
イギリスの技術者たちはインド産綿布に負けないように、染色技術や紡績技術を改良し続けました。
その結果、それらの積み重ねが産業革命へとつながっていくことになります。
つまり、産業革命は単にヨーロッパの人たちが突然優秀になったわけでなく、インド製品という非常に強力なライバルに負けないように努力した結果、起きたことだったんです。

ヨーロッパ人の進出
ヨーロッパ人は海外進出

では、ヨーロッパ人はどのようにしてアジア貿易へ参加したんでしょうか?
もともとインド産の品物は、インド商人やムスリム商人によって中央アジアや西アジアを経由してヨーロッパへ運ばれていました。
ところが、時代が進むとそれらの交易路は政治的に不安定になっていきました。

SQ:なぜそれまでの交易路が政治的に不安定になったのか?
具体的には15世紀頃から不安定になったんですが、その最大の要因がオスマン帝国の拡大でした。
1453年にオスマン帝国はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服しました。
これによって、地中海東部や西アジアの重要な交易路の多くがオスマン帝国の支配下に入ります。
もちろん交易そのものが完全に止まったわけではありませんでした。
むしろオスマン帝国も関税収入を得るため交易を継続させました。
しかし、ヨーロッパの商人から見ると、
・オスマン帝国への関税支払いが必要になる
・仲介商人が増えて価格が高くなる
・政治情勢によって交易が制約される可能性がある
という問題があったことから、交易路が不安定になっていったんです。
15世紀以降、オスマン帝国がコンスタンティノープルを征服して重要な交易路を支配したため、ヨーロッパ商人は関税負担や価格上昇、政治的制約を受けるようになったため。

そこで、ヨーロッパ諸国は仲介商人を通さずに、直接インドへ行こうと考えるようになりました。
これがあのヨーロッパ大航海時代の大きな動機になりました。
実はあのコロンブスも、もともとはインドへの航路を探していた人物でした。

ところが到着したのはアメリカ大陸で、彼は最後までそこをインド周辺だと思い込んでいたんですよね。先住民の「インディアン」という呼称も、インド人だと思ったことに由来していましたよね。
世界史のなかでもかなり有名な勘違いですが、それほど当時のヨーロッパ人にとってはインドが魅力的な場所だったんです。
そして、ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰経由でインド(アジア)航路を開くことに成功すると、ヨーロッパ諸国は本格的にアジア貿易へ乗り出していくことになります。

香辛料を求めたヨーロッパ諸国
初期のアジア貿易で大きな利益を生んだのは、言わずもがな“香辛料”でした。
胡椒、クローブ、ナツメグなどは現在では身近な食品ですが、当時のヨーロッパでは非常に貴重な商品だったんです。

冷蔵庫のない時代、肉の保存や臭み消しのためにも香辛料が重宝されました。そのため「黒い黄金」と呼ばれるほど高値で取引されてたんです。
最初にアジアへ進出したのはスペインとポルトガルでした。
スペインはフィリピンを支配し、ポルトガルはゴア・マラッカ・マカオなどに拠点を築きました。
しかし、両国は軍事力と布教活動に重点を置きすぎたしまったことで、長期間の商業活動では次第に後退していきました。
それに代わって主役となったのがオランダとイギリスでした。

東インド会社の登場
17世紀になると、ヨーロッパ各国は海外進出のため、東インド会社を設立します。
東インド会社とは、国家の保護を受けながら海外貿易をおこなう巨大企業のことです。

現代でいうと、多国籍企業と軍隊を合わせたような存在でした。

いち早く東インド会社を設立したオランダは、ジャワ島のバタヴィアを拠点にしました。
その後、台頭していきたイギリス東インド会社をアンボイナ事件をきっかけに香辛料貿易から排除して、その後は香辛料貿易をほぼ独占します。
しかしオランダの特徴はそれだけではありませんでした。
オランダはアジアとヨーロッパの貿易だけでなく、アジア内部の貿易でも大きな利益を得ていました。
例えば、日本の銀を東南アジアへ運び、東南アジアの商品をインドへ運び、インドの商品を別の地域へ運ぶといった複雑な交易ネットワークを築いていたのです。
一方、香辛料貿易で出遅れたイギリスは活動の中心をインドへ移します。
マドラス、ボンベイ、カルカッタなどに商館を設置し、インドとの貿易を発展させていきました。


ではここで考えてみましょう。
SQ:オランダとイギリスの各東インド会社では、どちらが長期的な発展につながる戦略をとっていたと考えられるか?

利益の出し方や拠点の選び方に注目してみましょう。
オランダ東インド会社は香辛料貿易の独占によって大きな利益を得ましたが、その利益は特定の商品に依存していました。
一方、イギリス東インド会社は東南アジアの香辛料貿易から撤退した後、インドに拠点を移して幅広い貿易ネットワークを築いていきました。
その結果、イギリスはインドとの結びつきを強め、後にはインド支配へと発展していくことになります。
したがって、特定の商品の独占を目指したオランダよりも、インドを拠点に市場や活動地域を広げたイギリスの方が、長期的な発展につながる戦略をとっていたと考えることができます。
特定の商品の独占を目指したオランダよりも、インドを拠点に市場や活動地域を広げたイギリスの方が、長期的な発展につながる戦略をとっていた。

まとめ
MQ:ヨーロッパ諸国はどのようにしてアジア貿易へ参入し、その主導権を握るようになったのだろうか?
A:ヨーロッパ諸国はオスマン帝国に支配された従来の交易路を避けるためにアジアへの新航路を開拓し、東インド会社を設立して貿易を拡大したことで、しだいにアジア貿易の主導権を握るようになった。

今回はこのような内容でした。

次回は、イギリス東インド会社のインド支配についてみていきます。なぜ東インド会社はインドを支配するに至ったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
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