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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はイギリス東インド会社のインド植民地化についてです。なぜ商業会社がインドを支配することができたんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:なぜイギリス東インド会社は、広大なインドを支配できたのか?

みなさんは、「植民地支配」というと、最初からヨーロッパ諸国が軍隊を送り込んで現地を征服したようなイメージを持っているかもしれませんが、インドの場合は少し違いました。
実はイギリスは、はじめからインドを支配しようとしていたわけではなかったんです。
もともとイギリスは、インド綿布や香辛料などを求めてやってきた商人でした。
ところが、18世紀になるとインドの政治状況が大きく変化していきます。
その混乱のなかで商人だった東インド会社が次第に軍事力と政治力を身につけていき、ついには広大なインドを支配する存在へと変化していったんです。
ムガル帝国の衰退と地方勢力の台頭
帝国の衰退
18世紀はじめ頃、インドでは大きな転換点を迎えていました。
ムガル帝国で最大領土を実現した第6代皇帝アウラングゼーブが死去してしまいます。
アウラングゼーブの死後、皇帝が数か月や数年単位で殺害や廃位によって交替していき、政治闘争による混乱が起きました。
こうして、ムガル帝国は広大な領土を統治する力が急速に弱まっていきました。

地方勢力の台頭
SQ:ムガル帝国が弱体化したにも関わらず、なぜ地方勢力は力を伸ばすことができたのか?
しかし、これは単純な「衰退」ではありませんでした。
実はこの時代のインドでは、香辛料を購入するためにヨーロッパ商人たちが大量の銀貨を持ち込んだことで、商品経済や貨幣経済が発展していました。
だから、各地域の経済活動はむしろ活発になっていたんです。
なので、ムガル帝国の中央政府から離れた有力商人や地方総督(官僚)たちは、弱体化した帝国をよそ眼に力を溜め込んでいき、独立色を強めていきました。

こうして、インド各地では次第に弱体化したムガル帝国から分離する地方政権が台頭するようになっていきます。
北西部のパンジャーブ地方では、シク教勢力が武装してムガル帝国に抵抗していました。
また、アウランブゼーブ時代に抑えられていたラージプート勢力も再び独立運動を強めてました。
さらに、東部のベンガルでは太守(地方総督)が事実上の独立政権になって、イギリス人の商業活動を規制するほどの権限を持つようになります。
西部のデカン地方ではマラーター王国が拡大する一方で、南部ではマイソール王国が独立するなど、ムガル皇帝から自立した支配をするようになります。

このように18世紀前半のインドでは、ムガル帝国を支えていた有力州や地方勢力が次々と独立し、広大な帝国は実質的に分裂状態になりました。
そして、この政治的な分裂が進んだことが、後にイギリス東インド会社が各地の勢力争いに介入し、インド支配を拡大していく大きなきっかけになっていくことになります。
ヨーロッパ商人が持ち込んだ大量の銀によって商品経済・貨幣経済が発展し、各地域が豊かになったため、地方総督や有力商人が経済力を背景に中央政府から自立し、勢力を拡大できたため。

ヨーロッパ勢力の介入
東インド会社の要塞化
アウラングゼーブの死後、インドで地方勢力同士の戦争が激しくなると、商館を置いていたヨーロッパ諸国もその争いに巻き込まれるようになっていきました。
しかし、ここで興味深いのが、インドの地方勢力も積極的に経済力のあるヨーロッパ勢力を利用しようとしていたことです。
地方勢力の支配者たちは、

イギリスを味方につけよう!

フランスにも協力してもらおう!
と考えるようになります。
一方、イギリスやフランスの東インド会社も、

味方した勢力が勝てば、自分たちの利益が増える!
と考えるようになります。
こうして、東インド会社の商館にも兵士が置かれるようになり、周囲には城壁も築かれていきました。

こうして、東インド会社はもはや単なる商業拠点ではなく、軍事拠点へと変わっていったんです。

カーナティック戦争
インドの東インド会社はこうして軍隊を保有する「武装した商業会社」へと変化していきました。
南インドでは、イギリス東インド会社がマドラス、フランス東インド会社がポンディシェリを拠点に勢力を広げていました。
そして、ヨーロッパで起こった戦争が遠く離れたインドにも影響を与えるようになっていきます。
その代表例が、オーストリア継承戦争や七年戦争と連動して起こったカーナティック戦争と呼ばれるものです。

「カーナティック」とは南インド東海岸一帯を指す地名を指します。
この戦争は、単なるイギリス対フランスの戦争ではありませんでした。
南インドではもともと地方支配者たちの後継者争いや勢力争いが続いていました。
そこへイギリスとフランスの東インド会社が介入してきて、それぞれ有力なインド地方勢力を支援したことで、
「インドの内戦」と「ヨーロッパ諸国の国際戦争」が結びついた戦争
となっていったんです。

カーナティック戦争は、18世紀の「世界規模の戦争」の一部だったんです。

このカーナティック戦争の序盤を優勢に進めたのは、フランス東インド会社でした。
当時のフランス東インド会社を率いていたデュプレクスは、現地の慣習や文化を積極的に取り入れることで、インドの有力者たちとの人脈を築いて、同盟や後継者争いを巧みに利用して勢力を拡大させていきました。


「ヨーロッパ人」としてはなく、インド王侯と同じ衣装で「インド人」のように振舞っていたそうですよ。
その手腕もあって、一時は南インドの広い地域にフランスの影響力を及ぼすことに成功して、カーナティック戦争を有利に進めていきました。
しかし、この戦争の勝敗を分けたのは個人の能力だけではありませんでした。
当時、フランス本国はヨーロッパ各地で戦争を抱えていて、インドへの支援を十分におこなうことができなかったんです。
一方のイギリスは海軍力と財政力に優れていたので、本国から継続的な支援を受けることができました。
こうして徐々に、イギリス東インド会社が軍事的に優位に立っていきました。

ちなみに、フランスのデュプレクスは本国政府から十分に評価されず、本国の許可なく戦争を拡大したとみなされて解任されてしまいました。
責任を負われる形で優秀な指導者を解任したフランスは、その後、急速に勢力を後退させていくことになりました。


以上のことから、歴史は以下のことを教えてくれます。
有能なリーダーだけでは勝つことはなく、国家全体の経済力や軍事力、そして継続的に戦争を支える国力が勝敗を左右する。
この戦争は3度にわたって続き、第1次・第2次ではフランスが優勢でしたが、七年戦争と連動していた第3次ではイギリスが形成を逆転させることになりました。
イギリス軍はフランスの拠点ポンディシェリを占領して、同じ頃にベンガル地方で起きていたプラッシーの戦いでも勝利したことで、イギリスの勝利が決定的になりました。
最終的に条約によって、フランス東インド会社はポンディシェリなど一部の拠点こそ維持しましたが、インド経営の主導権を完全に失うことになりました。
こうして、イギリス東インド会社は「イギリス領インド帝国」へとつながる第1歩を踏み出すことになりました。

プラッシーの戦い
そして、イギリスがインドで決定的な優位に立つきっかけとなったのが、さきほど紹介したプラッシーの戦いでした。
当時、ベンガル地方はインドでも特に豊かな地域でした。
しかし、ベンガル太守(地方総督)は、イギリス東インド会社に強い不満を抱いていました。
イギリスは本来ただの商人であるにもかかわらず、カルカッタの商館を無断で要塞化して、さらにムガル帝国から認められた特権を利用して利益を独占していたからです。
これに対してベンガル太守はイギリス勢力を攻撃し、カルカッタから追放してしまいました。
こうして始まったのが、プラッシーの戦いです。
すると、イギリス東インド会社は、マドラスからクライヴという人物を派遣します。

この戦争は軍事力だけでみると、ベンガル太守軍が圧倒的だったんですが、クライヴは太守の有力部下と「戦後に太守の地位を与える」という密約を結んで取り込んでしまいます。
なので、いざ戦闘になると有力部下の部隊がほとんど動かず、さらに雨によって太守軍の大砲が使えず、軍が混乱して総崩れになってしまいました。
こうして、プラッシーの戦いはイギリス東インド会社の勝利に終わりました。

このプラッシーの戦いは、日本の関ヶ原の戦いで小早川秀秋が寝返った場面によく似ているため、「インドの関ヶ原」と呼ばれたりしています。実際、この戦いの本質はイギリスとフランスの正面対決というよりも、ベンガルの内紛にイギリスが介入した出来事だったと言えますね。

徴税権の獲得
SQ:なぜ徴税権の獲得は、単なる貿易上の利益よりも大きな意味を持ったのでか?
戦後、イギリスは親英的なベンガル太守を新しく就けて、大きな特権を獲得します。
しかし、これで支配が完成したわけではありませんでした。
東インド会社の干渉に不満を抱く勢力は依然として多く、反発は続いていました。
そして、イギリス東インド会社はその後も反対勢力やムガル帝国の連合軍を破っていき、最終的にベンガル・ビハール・オリッサの徴税権(ディーワーニー)を獲得することに成功します。
こうして、「東インド会社(商人)が税金を集める立場」になったことで、インド支配を大きく前進させることになりました。

普通、税金を集めるのは国家や王朝です。しかし東インド会社は本来、利益を追求する民間の貿易会社でした。その会社が数千万人規模の地域から税金を徴収できるようになったんです。

徴税権を得た東インド会社は莫大な収入を得ることになり、その資金でさらに軍隊を強化していきました。
そして軍事力によって新たな地域を支配していき、そこで得た収入を再び軍事力につぎ込むという循環を生み出していきました。
つまり、東インド会社は単なる貿易商社から、領土と軍隊と財源を持つ「国家のような存在」へと変化していったんです。
後のイギリスによるインド植民地支配は、このプラッシーの戦いと徴税権の獲得によって成立していったんです。
徴税権を獲得したことで、貿易の利益だけでなく安定した税収を得られるようになり、その資金で軍隊を強化してさらに領土を獲得できたため、単なる貿易会社から国家のような支配者へと変化したため。

マイソール戦争
ベンガル地方の支配を盤石にしたイギリス東インド会社が次に直面したのが、南インドのマイソール王国でした。
ムガル帝国の衰退が進むなかで、その支配下だったマイソール王国では農業の振興や産業の育成を進めながら国力を強化していました。
彼らはイギリスのインド進出に対して最も激しく抵抗した勢力の一つで、巧みな外交と軍事力によってイギリス軍を苦しめて、約8万の軍勢を率いてマドラスに迫るなど、イギリスに大きな脅威を与えました。

ちなみに、この時期に優秀な国王によって世界史上初期の「ロケット兵器」が開発されたんですよ。鉄製の筒に火薬を詰めて発射する兵器で、イギリス軍はその威力に驚きました。後にイギリスはこれを研究し、ヨーロッパのロケット開発にも影響を与えているんですよ。
こうして、マイソール王国とイギリス東インド会社は、30年以上にわたって4度のマイソール戦争を繰り広げました。
最終的にはイギリスが優勢になっていき、第4次マイソール戦争で首都が陥落して、国王が戦死したことでマイソール王国は敗北してしまいました。
この勝利によって、イギリスは南インドの支配を確立して、インド植民地化をさらに大きく前進させることになります。

マラーター同盟とシク王国の抵抗
マラーター戦争
そして、西インドではムガル帝国に長く抵抗していたヒンドゥー教勢力のマラーター王国が強大になっていました。
やがて、マラーター王国は衰退しつつあったムガル帝国を圧倒するようになり、インド最大級の勢力に成長してイギリス東インド会社の前に立ちはだかりました。
しかし、その拡大は長くは続きませんでした。
北インドでアフガニスタンの王朝と激突して大敗を喫してしまいます。
この敗北によって多くの指導者や兵士を失ってしまい、マラーター王国の勢力は大きく後退してしまいます。
さらに、その後は宰相の後継者争いなどの内紛が続き、結束も弱まっていきました。

そして、この混乱に目を付けたのがイギリス東インド会社でした。
当時のイギリスはインド全域への勢力拡大を目指していたので、マラーター王国内部の対立に介入し、特定の有力者を支援する見返りとして領土や権益を獲得していきました。

さすがの外交力ですね。
こうして、イギリスとマラーター王国が3度にわたって戦ったのがマラーター戦争でした。
第1次では、マラーター軍が粘り強く抵抗し、イギリスは決定的な成果を得られませんでした。
しかしその後、イギリスは軍事力と外交力を巧みに利用してマラーター王国を分断し、徐々に支配を広げていきます。
第2次では、イギリスが次々とマラーター軍を撃破していき、北インドの中心地域を支配下に収めました。
そして第3次では、マラーター軍が最後の抵抗を試みたものの、軍事力の差はすでに決定的で、マラーター王国は最終的に降伏することになりました。
こうして、長年インドの巨大勢力を誇ったマラーター王国は事実上滅亡して、イギリス東インド会社の支配下となりました。

シク戦争
マラーター戦争の結果、インド中央部はイギリスの支配下に入り、インドでイギリスに対抗できる有力な勢力は北西部のシク王国を残すだけになりました。
シク王国はシク教徒の国家で、強力な軍事国家へと成長して、当時のイギリスでも簡単に手を出せない存在になっていました。

なので、シク王国はインド最後の有力な反英勢力として存在感があったんです。
しかし、王国内で王位継承をめぐる争いが激しくなっていき、王国は次第に混乱に陥っていきました。
イギリスはこの内紛をチャンスと考えて、シク王国の政治に介入していき、王国と対立するようになっていきました。

ちなみにイギリスは、単にインド支配を完成させたいというだけでなく、中央アジアへ勢力を拡大していたロシアへの警戒もあったんです。なので、北西を支配することで、ロシアの南下を食い止めようとしていたんです。

こうして始まったのがシク戦争です。
第一次では、シク軍が奮闘しましたが敗れてしまい、多額の賠償金の支払いとカシミール地方を割譲することになりました。
しかし、シク教徒の抵抗は終わらず、第2次が起こりますが、イギリス軍はシク軍を破って、完全にシク王国を併合してしまいます。
こうして、パンジャーブ地方はイギリス直轄の支配下に置かれることになり、インドの有力な地方勢力はほぼ全てイギリスに敗れてしまい、イギリス東インド会社によるインド征服が事実上完成することになりました。

ちなみに、シク教徒の兵士はその後も戦闘力を評価されて、大英帝国軍の重要な戦力になっていったんですよ。

SQ:イギリスはなぜ広大なインドを少ないイギリス人で支配できたのか?

では、なぜイギリスは比較的少数でインドを支配することができたんでしょうか?
イギリス東インド会社は、自らの軍事力だけでインドを征服したわけではありませんでした。
後継者争いや内乱に介入して現地勢力を分断し、有力者を協力者として取り込んでいきました。
また、ベンガルの徴税権を獲得したことで莫大な税収を得て、その資金で軍隊を維持・拡大することができるようになったんです。
内紛の利用 → 徴税権獲得 → 軍隊強化 → 領土拡大
このように、現地勢力を利用する統治と豊富な財源を組み合わせたことで、少数のイギリス人でも広大なインドを支配できたんです。
インド諸国の内紛や後継者争いに介入して有力者を味方につけ、さらに徴税権の獲得によって安定した財源を確保したことで、現地の人々や諸侯を利用しながら支配を拡大できたため。

植民地化の完成
以上の流れから、19世紀半ばまでに、イギリス東インド会社はインド全域の支配に成功しました。
ただし、その統治方法は1つだけではありませんでした。
協力的だった支配者には藩王国として一定の自治を認める一方、外交権だけはイギリス東インド会社が持つ、「間接統治」を採用しました。
一方で、重要拠点については「直接統治」を採用しました。
つまり、イギリスは、「すべてを直接支配する」のではなく、「地域によって統治方法を使い分ける」ことで効率的に巨大な領土を支配することができたんです。
こうして、インドの植民地化は完成することになりました。

まとめ
MQ:なぜイギリス東インド会社は、広大なインドを支配できたのか?
A:ムガル帝国の弱体化によって各地の地方勢力が分立するなか、イギリス東インド会社は内紛や後継者争いに介入して、徴税権を獲得し、莫大な財源を得た。その税収で軍隊を強化しながら領土を拡大し、間接統治も活用したことで、広大なインドを支配することができた。

今回はこのような内容でした。

次回は、インド植民地統治の開始と社会変化についてみていきます。イギリス東インド会社によるインド統治はどのような特徴があったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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