[1-4.3]春秋・戦国時代

1-4.中国の古代文明

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。このブログから世界史を深めてくれると嬉しいです。「問い」の設定や記事の最後にはパワーポイントもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!

※1記事で教科書0.5~1ページほどの文量です。実際の授業は記事複数分に相当すると思いますので、MQ、SQの設定などは各自で自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

今回は中国を治めていた周が弱体化して分裂時代へと入っていきます。

はたしてどんな時代だったのか?一緒にみていきましょう!

MQ:春秋時代と戦国時代はどのような点で異なるのか?

今回の時代はここ!

出典『詳説世界史研究』山川出版社
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周(西周)の衰退と東周

一族中心の封建制によって繁栄した周ですが、前8世紀になると王都が鎬京(こうけい)から洛邑(らくゆう)に移ってしまいました。

周の遷都 鎬京から洛邑へ

この頃から急激に周王朝の権威が衰えていきます。簡単にいうと周りの諸侯が言うことを聞かなくなり、互いに争いあう内乱状態になってしまったのです。

についてはこちら!

SQ:なぜ周王朝の王都が移ったのか?

周王
周王

気分転換にお引越ししよー

こんな理由で首都を遷都なんかできませんよね。(笑)

ヒントは「国内の問題(内政問題)」と「国外の問題(外交問題)」です。

それとは主に「周王室の分裂」と「外敵の侵入」でした。

周王室の分裂

これも歴史上、王国の定めなんでしょうか。

歴史法則

繁栄した大国は王の後継問題で派閥争いが起こる。

周王朝でも後継者争いが起きてしまいます。当時は幽王の後継をめぐって平王とその弟(異母)が争っていました。

ただの兄弟喧嘩ならいいのですが、周りの役人や諸侯からすると味方に付いたほうが王になれば、その恩恵をうけることができます。なので周りも兄弟のどちらかに付いて一緒に争ってしまう状況になってしまったんです。

まさに内乱状態、当然政治も一筋縄では決まらなかったことでしょう。

最終的には平王が破れ、鎬京を追い出されて移った先が洛邑であり、そこを拠点にして内乱状態がしばらく続きました。

周王室の分裂

兄弟で後継者をめぐって国内が内乱状態に。

外敵の侵入

2つ目の要因はこの外敵の侵入によるものです。今まではこれが直接的な要因だと言われていたのですが、現在ではこれが変わってきています。

当時、周は北西に拠点を置いていた犬戎(けんじゅう)と約100年にわたって抗争していました。

犬戎・・・以前は遊牧民という位置づけだったが研究が進み、現在では定住型の生活を送り周の人々と大差ない民族だったようです。(参考:世界史の窓 犬戎 (y-history.net)

しかし犬戎との争いの最中、周は後継者争いによる内乱で混乱してしまいました。そのスキをついて犬戎が周国内に侵入してきたんです。

周は混乱状態なので迎撃することができず、首都の鎬京まで侵入され王だった幽王が殺害されてしまいました。

外敵の侵入

周辺民族の犬戎が侵入し、王を殺害された。

首都鎬京が侵略され幽王までも殺害されたのですから王宮は血の海だったことでしょう。その後、後継はもう一つの拠点だった洛邑を治める平王になりました。

ここから歴史上、周は東周と呼ばれるようになります。

これらの2つの要因をまとめるとこうです。

SQ:なぜ周王朝の王都が移ったのか?

周は王位継承の内紛や犬戎の侵入が起こったため、都が鎬京から東方の洛邑に移ることになったため。

洛邑遷都

これ以後、前770年から前221年に秦に滅ぼされるまでを「春秋戦国時代へといいます。まさに戦乱の時代です。マンガ『キングダム』の時代の始まりです!

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春秋時代

この洛邑に首都が移り、東周となった前770年から前403年までを春秋時代と呼びます。

「春秋」は孔子が作った『春秋』という歴史書からとられた呼び方。

この時代はどのような時代だったのでしょう。

まず第一に周王朝の弱体化です。後継者争いの内乱や犬戎の侵入などで国内の混乱が解決できず、王の権威が弱くなってしまったのです。みんな言うことを聞かなくなっちゃったんですね。

当時は周辺民族が度々侵入してくることで国内が混乱していました。国としては、その異民族の撃退が課題になってる状況でした。

そこで周王朝から土地を与えられた周辺を治める諸侯が台頭します。

諸侯
諸侯

みなの者!我々の力で周王をお守りするのだ!

周王を守る建前で周りを従えれば、わが一族が政治の実権を握れるぞ。

とまあこんな感じで、周王を守る建前で武力による威圧で周りの諸侯を束ねる有力諸侯が現れ、争いあうようになります。

覇者の登場

この有力諸侯は尊王攘夷のもと、周りの諸侯たちの盟主となって周王を支えました。この有力諸侯を覇者(はしゃ)といいます。

なんだかカッコイイ名前ですね。尊王攘夷は日本の江戸後期に黒船来航以降にも使われた言葉ですね。

尊王攘夷(そんのうじょうい)・・・主(王)を尊重し、異民族を追い攘(はら)う意味の四字熟語

覇者

「牛耳る」の語源

「牛耳る(ぎゅうじる)」とは集団や組織を自分の思い通りに支配するという意味がある言葉です。

なぜ「牛」に「耳」なんでしょう?

実はこれは春秋時代の覇者による会盟(同盟)の儀式が起源となっているんです。

それは当時、覇者が周辺諸侯たちと同盟を結ぶ際に、盃(さかずき)に牛の耳の血をいれて飲んだことから「牛耳る」という言葉や「盟」という文字ができたんです。

牛耳る、盟の語源

ちなみに上の地図の「呉(ご)」と「越(えつ)」という諸侯同士の争いでは有名な言葉が生まれています。

臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

意味は「目的を達成するために苦難を我慢すること」です。

呉が越に敗戦した際に、呉王が復讐するまでその時の悔しさを忘れないようにと、薪(まき)の上で寝て、ことあるごとに苦い動物の肝(レバー)を舐めていた逸話からできた言葉なんです。

日本も明治の頃、三国干渉(列強諸国からの外交圧力)に屈した際に、この言葉が使われてたんですよ。日本史で聞いたことのある人もいるんではないでしょうか。 

臥薪嘗胆

呉越同舟(ごえつどうしゅう)

意味は「危機の中、仲の悪い同士が協力し合うこと」です。

呉と越が激しく争っていた時、国境にある川の渡し船に呉と越の人が乗り合わせました。船上の雰囲気は最悪です。しかし、その時に大雨が降ってきて高波が押し寄せてきました。その際に呉も越も関係なくみんなで協力してその危機を乗り越えたという逸話からできた言葉なんです。

呉越同舟

 

春秋時代をまとめると・・・

春秋時代

弱体化した周王を支える建前で諸侯№1を争った時代

といった感じでしょうか。

春秋時代
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戦国時代

春秋の覇者として君臨していた諸侯のうち、大国の晋(しん)という国が趙(ちょう)・韓(かん)・魏(ぎ)の3つの国に分裂した前403年から秦の中華統一までの前221年までを戦国時代と呼びます。 

「戦国」はこの時代の策謀(計略)を記した『戦国策』から付けられた。

では戦国時代は春秋時代とはどのように違ったのでしょうか?

春秋時代は周王を支える諸侯たちによる勢力争いの時代でしたよね。諸侯№1を競っていました。

なので周王朝も形式的ではありますが尊重されてましたし、あくまで主人公は諸侯です。

ですが、春秋後期になるとこの諸侯の時代が崩壊していきます。諸侯の下で実力をつけた大夫(家臣)や士(役人)がクーデターなどによって権力を握って実力のある者が国を治めるようになっていったのです。

こうなるともう周王の面倒をみる必要はなくなるので、自ら王を自称して周辺国家と激しく争うようになります。

まさに下剋上の時代です。周の封建制は崩壊してしまったので、春秋時代とは区別して戦国時代と呼ばれるようになったんですね。

はじめ数百あった国は、最終的には7つの大国に吸収されていきました。これら有力な7か国は「戦国の七雄(しちゆう)」として激しく闘い合いました。

春秋時代から戦国時代へ 出典:『詳説世界史B』山川出版社
戦国の七雄

(せい)・・・海に面することから塩の生産で栄えた。

(そ)・・・長江流域の稲作文化などの南方文化圏を吸収し発展した。

(えん)・・・採集などの東北の文化圏を吸収した。

(ちょう)・・・北方の遊牧民から戦術を吸収し勢力を拡大した。

(しん)・・・西方の牧畜地帯を押さえて発展した。

(ぎ)・・・黄河中流域の文化圏を吸収し発展した。

(かん)・・・周王朝があったころの中心部を押さえて発展した。

戦国の七雄

ちなみにこの「秦」を題材にして描かれているのがマンガ『キングダム』なんです!誇張している部分はありますが当時の歴史書にそって書かれていて勉強になりますし、なにより戦の攻防や戦闘シーンは圧巻です!歴史好きならぜひ読んでみてください!

これらの大国は各地の特徴を活かした個性ある文化を築いていきました幣や度量衡(どりょうこう)、車輪の大きさなど、7国でそれぞれ違ったんですよ。

春秋・戦国時代の文化についてはこちら!

度量衡・・・度(長さ・ものさし)、量(体積・ますの大きさ)、衡(質量・はかり)

でも官僚を地方に派遣して中央政府の命令が行き届くようにした中央集権化や、国独自の法律を作るなどの政策は共通していました。

戦国時代を簡単にまとめるとこんな感じです。

戦国時代

周を無視し、王を自称して覇権を争う実力主義の時代

戦国時代
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華夷思想(かいしそう)

春秋時代から戦国時代の約500年間は、中国が大きく変わった時代でもありました。

それまでは都市国家である邑がそれぞれ独立していた状態から、それらを束ねた領土国家へと変わっていったんですね。

同時に、周の時代の範囲を春秋時代の頃には「国は違っても民族としては同じ文化圏」という意識から「中国」と認識されるようになっていきました。

もう紀元前には中国という考え方があったんですね。(笑)

そしてこの考え方は、自分たちが文化の中心であり、それ以外は野蛮な「夷狄(いてき)」と呼ぶ華夷思想(かいしそう)と結びついていきました。

中心の国だから「中国」的な感じですね。まあほんとはずっと異民族の侵入に悩まされて恐れていたから強がっていたとも言われています。虚勢ですね。笑

華夷思想
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まとめ

MQ:春秋時代と戦国時代はどのような点で異なるのか?

A:春秋時代は周王を支える有力諸侯の覇者によって、国家間の秩序が維持されていた時代であった。それに対して戦国時代は、併合や分裂によって諸侯による国家間の秩序が保てなくなり、王を自称して激しく争った実力主義の時代であった。

今回はこのような内容でした。

この春秋・戦国時代によって中国は政治的(封建制かた実力主義)や経済的(農耕技術、貨幣流通)にも大きく変わった時代でした。

次回はこの時代の経済的な要素である社会と文化についてやっていきます。戦国時代でどこが勝ち残ったかについてはしばらく後になってしまいますがお楽しみに!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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