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[1-5.2]中南米の先住民文明

1-5.南北アメリカ文明

世界史を手軽に学びたい方に向けて授業形式でブログ記事を書いています。復習や予習の際に使いやすい内容になっています。「問い」の設定や記事の最後にはパワーポイントもダウンロードできます!それではスタンダード世界史探究をどうぞ!※あくまで1例なので、「MQ」や「SQ」、スライド等は自由にアレンジしてください。

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は中南米に出現した先住民たちの文明についてです!

みなさんには馴染みが薄いかもしれませんが、一時期世界最大の人口をほこる都市があったりもしたほど発展していたんですよ。

それでは見ていきましょう!

MQ:中南米の文明はどのような統治体制だったのか?

今回の時代はここです!

出典:『詳説世界史研究』山川出版社
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オルメカ文明

中央アメリカ(いまのメキシコ付近)文明の原型となったのは、前1200年ごろに成立したとされるオルメカ文明というものです。この文明はメソアメリカ文明で初めての都市文明を築きました。

メソアメリカ文明・・・中央アメリカ文明の総称。「メソ」は「中央」という意味で「中央アメリカ」とほぼ同じ意味。

出典:『詳説世界史探究』山川出版社

この文明は宗教が盛んで宗教遺跡も多く見つかっており、中でも巨石の人頭像の迫力は圧巻です。

巨石人頭像 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

オルメカ文明付近は密林が多かったため、そこに生息する肉食獣ジャガーを雨と豊穣をもたらす神として信仰していました。食物連鎖の頂点ですからね。希少なうえに人間単体では勝てないほど獰猛(どうもう)なので崇めたんでしょうね。

密林の王者ジャガー

この文明は絵文字や正確な暦法も持っていて、その後のテオティワカン文明やマヤ文明に影響を与えました。インド発祥といわれる数字の「ゼロの概念」もすでにあったそうですよ。

紀元前なのにすごく発展していたんですね。

前400年ごろまでこの文明は繁栄しましたが、その後は衰退していきユカタン半島のマヤ文明が誕生します。

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マヤ文明

先ほどのオルメカ文明の影響を受けて、前10世紀ごろからユカタン半島に現れたのがマヤ文明です。

出典:『詳説世界史探究』山川出版社

この文明は大きな統一国家があったわけではなく、複数の大都市を中心に広い範囲の王国ができたり、多くの小国家が分立していた時期を繰り返していました。

実際に繁栄期を迎えたのは4世紀~9世紀ごろで、日本でいうと古墳時代から平安時代にかけての時期です。こうやって日本の時代と比較できることろまで来るとイメージしやすいですね。

マヤ文明はトウモロコシの栽培が盛んで、密林を利用した焼き畑農業や灌漑農業をおこなっていました。

焼き畑農業のサイクル

独自のマヤ文字をもち、表記法である二十進法や天文学が発達していたことから正確な暦法も持っていました。火星や金星の軌道を測っていたらしいですよ。すごい技術力ですね。

二十進法・・・「20」を底として、それを基準に数を表す方法。

マヤ文字 出典:「世界史の窓」https://www.y-history.net/appendix/wh0204-005.html

二十進法は解説すると長くなるので、詳しくはネットで検索してみてください。(笑)

マヤ文明も宗教的な色合いが強く、祭祀をおこなうピラミッド状の建築物があったり、太陽神への生贄(いけにえ)の儀式もおこなわれていました。

左:ティカル遺跡の神殿ピラミッドと公共広場 右:コパン遺跡の石造祭壇  出典:『詳説世界史研究』山川出版社

建築技術も高かったんですね。

マヤ文明では祭祀の際に神聖な池に生贄の人を生きたまま金属器と一緒に沈めるという儀式などもあったんですよ。

マヤ文明の生贄

マヤ文明は他民族の進入などもあり衰退していき、スペインの侵略によって17世紀に吸収されてしましました。

侵略前のマヤ文明を描いた映画が公開されているので、機会があればぜひ見てみてください。結構ショッキングなシーンもあるので気をつけてください。

映画『アポカリプト』
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テオティワカン文明

このテオティワカン文明もオルメカ文明の影響をうけて、前1世紀~後6世紀にメキシコ南部で繁栄した文明です。先ほどのマヤ文明の時期と被っている時代がありますね。

出典:『詳説世界史探究』山川出版社

この文明の都市テオティワカンは後1世紀には20万人を超える人口を抱えており、当時世界では人口20万人を超えるような都市は数えるほどしかありませんでした。当時世界屈指の大都市だったんです。

当時20万人を超えていた大都市(抜粋)・・・コンスタンティノープル(ローマ帝国)、洛陽・長安(中国)、クテシフォン(ササン朝) etc.

その都市には「太陽のピラミッド」などの大遺跡も起こっており、当時の王権の強さを物語っています。

マヤ文明の神殿 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

この文明も7世紀ごろから衰退していき、他民族の文明に取り替わっていくことになります。

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アステカ文明

テオティワカン文明の後に、王国を中心に一大文明を築いたのがアステカ文明です。

繁栄したのは14~16世紀です。ちょうどヨーロッパ人が香辛料と黄金をもとめて海にでた大航海時代ですね。日本でいうと武士が台頭してきた鎌倉時代から安土桃山時代です。

出典:『詳説世界史探究』山川出版社

現在のメキシコ市で、湖に浮かぶ島に大都市テノチティトランを建設しました。

出典:『アステカとインカ 黄金帝国の滅亡』講談社学術文庫
出典:『アステカとインカ 黄金帝国の滅亡』講談社学術文庫

先住民インディオの都市はなんだか文明の進んでない貧相なものだと勝手に想像していませんか?

16世紀にスペイン人が訪れた際には、「ヨーロッパの中心都市にも劣らないほど立派だ。」というような記録が残っているほど実は立派な都市だったんですよ。

テノチティトランは16世紀には当時世界最大級の人口をもつほど大規模な都市でした。スペイン人も最初はその規模と軍事力の大きさにビビッていたほどです。

このテノチティトランを中心に道路網が整備され、周辺の諸民族を従えて貢納が義務づけられていました。

アステカ王は絶対的な権力をほこり、民衆は顔もまともにみれないほど神聖化されていました。周辺の諸民族もアステカ王の命令には絶対服従で、鶴の一声で数万人規模の徴兵が常に可能でした。文明各地から美女も集められ、王宮の仕事に従事していました。

アステカ王国の統治体制

王の所有する金もとてつもない量だったらしいですよ。

SQ:なぜ中南米では人間の生贄をささげる文化があったのか?

この文明も他文明とおなじく宗教色が強く、祭祀の際には生贄をささげていました。

ピラミッド神殿も太陽神の信仰のために使われていたんです。

太陽神は夜の間は姿を隠して英気を養う必要があったので、その栄養として人間の血が必要とされていたからなんです。心臓をえぐり取った後は、ピラミッドの階段から死体を蹴り落していたそうです。

なんだ想像するとご飯食べれなくなりそうですね。

なので常に生贄を用意しておく必要があったのですが、王国の民衆を使うと人口が減ってしまいます。なので、周辺の民族を攻撃して捕虜を捕まえて連行し、生贄にしていたんです。

なのでアステカ王国は常に周辺に攻撃をしかけていたので、敵が多かったそうです。そりゃ度々襲われて人々を拉致されたらそうなりますよね。

SQ:なぜ中南米では人間の生贄をささげる文化があったのか?

人間の体や血が信仰神の栄養源だとされていたから

しかし、現地人などは生贄に捧げられることは名誉なことだと考え、一族から出ると誇りに思っていたりもしたそうです。

上記でもマヤ文明で紹介した映画『アポカリプト』では、とある民族の村の襲撃から生贄までが鮮明に描かれています。結構ショッキングな映像なので見る際は注意してください。

周辺の何十万という民族を従えたアステカ王国ですが、16世紀初めには他文明と同じくスペインのコルテスらとの壮絶な戦闘の後、滅びていくことになります。

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インカ文明

この章の最後はインカ帝国擁するインカ文明です。12世紀にインカ族が南アメリカのクスコ(現在のペルー)に小国家を建設したのが始まりです。

出典:『詳説世界史探究』山川出版社

このインカ帝国はアステカ文明の影響をうけて南アメリカ大陸で独自の発展を遂げた文明です。

なんといってもすごいのが整備された道路網です。王道(現在の高速道路的なもの)は王国内に約3万kmも伸びていて、スペイン人の記録によると草一つ生えていないまっすぐな道だったそうです。

ちなみに地球一周が約4万kmなので、ほぼ一周できちゃうほどです。(笑)

SQ:なぜ山岳地帯に整備された道路網を作ったのか?

現在もそこはアンデス山脈がそびえる山岳地帯でもあります。モノを運ぶのには大変だったことでしょう。

しかし、ただモノを運びやすくするためだけに整備したわけではありません。

そこにはチャスキという飛脚が常に待機していました。この飛脚が素早く王の命令を各民族に伝達できるように山岳地帯に道を切り開いたのです。

SQ:なぜ山岳地帯に整備された道路網を作ったのか?

物資の運搬と情報伝達を迅速にするため

このチャスキは1日に100kmを超える距離を走り抜けるため、精力剤としてコカ(薬草)を使っていました。現在では危険薬物コカインの原料として使われているものです。

インカの飛脚、チャスキ 出典:「世界史の窓」https://www.y-history.net/appendix/wh0204-009.html

この道路網を駆使してインカ帝国は賦役(労働)や貢納を可能にしていました。トウモロコシやジャガイモが灌漑農業で生産され、鉱山の採掘も含めてすべてインカ帝国の所有のもと管理されていました。

なんだか少し昔にソ連や中国がやっていたような社会主義制度と似ていますね。まさに統制経済です。まあ古代文明ではあるあるなんですが。

インカ帝国の統治体制

インカ帝国は、山岳地帯に整備区画された石造都市を建設するなどの建築技術にも優れていました

アンデス山脈中に建設された、世界遺産にも登録されているマチュ=ピチュなどが有名ですね。

マチュ=ピチュ 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

インカ帝国でも宗教色が強く、王は太陽神の化身として崇められ絶対的な権力を誇っていました。外出する際は地に足を降ろすことはなく、戦闘の際も王が座る神輿を担ぐ人間が死ぬと、即座に新しい人が担ぎに来るほどそれは徹底されていたんです。

インカの黄金像 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

文字自体は持っていませんでしたが、縄の結び目で情報を管理するキープという記録法が使われ、貢納物の管理や命令伝達を行っていました。

キープ 出典:『詳説世界史探究』山川出版社

インカ帝国も16世紀初めにスペイン人のピサロによって王が殺害され、滅亡することになります。ここらへんもいろいろとドラマがあるのですが、追々やっていきましょう。

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まとめ

MQ:中南米の文明はどのような統治体制だったのか?

A:太陽神などへ生贄をささげるなどの祭祀をおこなう神権政治を敷き、広大な範囲の周辺民族を従えて賦役や貢納をさせるなど、支配的な統治をおこなっていた。

今回はこのような内容でした!

中南米の先住民文明は、密林や山岳地帯で築かれたため大河ではなく池や雨水を利用した灌漑農業を形成しましたが、鉄器や車輪などは使われていませんでした。馬などの大型家畜もヨーロッパ人が入植してくると同時に入ってくることになります。

これらによって生活水準は向上しますが、ヨーロッパ人は伝染病も一緒に持ち込んだので、先住民に大打撃を与えることにもなります。

なんだかアメリカ先住民と聞くと「文明の遅れた野蛮人」と思う人も多くいと思いますが、文明自体は何百万人も抱えるような広大さで、大航海時代のヨーロッパ人を驚かせるほど都市は整備され発展していたんですよ。

それらがヨーロッパ人によって侵略される話は「大航海時代」でやっていきましょう!

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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