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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回はインド大反乱についてです。この反乱は、教科書で「シパーヒーの反乱」とも呼ばれますが、実際には兵士だけでなく、旧支配層や農民、都市住民なども加わった大規模な反英運動でした。さらに、この反乱は約300年続いたムガル帝国を終わらせる出来事にもなります。今回は、なぜインド大反乱が起こり、どのように拡大していったのかを見ていきましょう。
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:インド大反乱は、なぜ北インド全域を巻き込む大規模な反英運動へと発展したのか?
東インド会社が支配したインド
18世紀後半、イギリスの東インド会社は反英勢力の戦いに勝利して、インド各地への支配を拡大していきました。
もともと東インド会社は貿易会社でしたが、次第に本国の資本家たちが唱えた自由貿易主義から、貿易特権が廃止されていき、19世紀以降は巨大な領土(インド)を統治する機関になっていきましたよね。
しかし、広大なインドを東インド会社のイギリス兵だけで支配するのは物理的に難しかったので、軍事力として利用されたのがシパーヒーと呼ばれるインド人傭兵でした。

彼らはカーストでは上位に属していて、規律も正しく有能だったそうですよ。
東インド会社に雇われて軍隊を組織したシパーヒーたちは、各地の征服戦争で重要な役割を果たしていき、軍隊の中心として東インド会社の勢力拡大を支えていきました。

ちなみにプラッシーの戦いから、シパーヒーを調達するようになったそうですよ。
ところが皮肉なことに、後に東インド会社最大の危機を引き起こしたのも、そのシパーヒーたちだったんです。

反乱の勃発
勃発
SQ:なぜ東インド会社を支えていたシパーヒーが反乱を起こしたのか?

では、なぜシパーヒーが東インド会社最大の危機を招いたんでしょうか?
それは、イギリス軍が東インド会社に導入した新式銃が発端でした。
イギリス軍はインドの東インド会社軍に新しいエンフィールド銃を導入しました。
この銃は紙製の弾薬包(薬包)を使用するんですが、装填する時に兵士が口で紙の端をかみ切る必要がありました。
ところが、その弾薬包には防水や保存のために牛脂や豚脂が塗られているという噂が広まったんです。
これは、シパーヒーにとって極めて深刻な問題でした。
シパーヒーの多くはヒンドゥー教かイスラーム教を信仰していました。
ヒンドゥー教徒にとって牛は神聖な動物で、その脂を口にすることは宗教上のタブーでした。
また、イスラーム教徒にとって豚は不浄な動物だったので、その脂に触れることは避けるべきものだったんです。
なので、多くのシパーヒーが信仰や尊厳が軽視されていると感じてしまい、イギリス側に強い不信感を抱くようになっていきました。
そしてその不満は最終的に、シパーヒーたちが北インドにある東インド会社軍の基地で反乱を起こす結果を招き、インド(シパーヒー)の大反乱が起きることになりました。

現代でもSNSの情報が一気に広がることがありますよね。
もちろんその時代にSNSはありませんでしたが、兵営から兵営へ噂が広がっていきました。イギリス政府が意図したかどうかではなく、人々がどう受け止めたかが重要だったのです。
歴史ではしばしば、事実そのものよりも「人々が何を信じたか」が大きな影響をもつことがあります。
新式銃の弾薬包に牛脂や豚脂が使われているという噂によって、自分たちの宗教や信仰が軽視されていると感じ、イギリスへの不信感を強めたため。

反乱拡大の背景
藩王国取りつぶし政策への反発
SQ:なぜインド各地の藩王や貴族は、イギリス支配を受け入れなかったのか?
新式銃の導入から始まったこの反乱ですが、ここから反乱はイギリス側の想定をはるかに超える規模へと拡大していきました。
その拡大の背景には、長年積み重なった植民地支配への不満があったんです。
とりわけ強い不満を抱いていたのが、インド各地の藩王や貴族などの旧支配層でした。
当時の東インド会社は支配地域を拡大するために、インドの藩王国を次々と併合していきました。
その中でも特に大きな反発を招いたのが、「男子の実子がいない藩王国は東インド会社が併合する」という政策でした。
インド社会では養子による継承が認められていましたが、東インド会社は養子を正当な後継と認めなかったんです。
そのため、藩王に実子がいない場合には「後継者不在」と判断して、領土を取り上げていたんです。
この政策によって、多くの藩王や貴族が領土や収入源を失うことになってしまいました。

彼らにとってイギリス支配とは、自らの伝統や地位を脅かす存在になっていたんです。

さらに、農民たちは重い地税の負担で苦しみ、職人たちもイギリス製工業製品の流入によって没落の危機にありました。
つまり、シパーヒーだけでなく社会のさまざまな階層が、それぞれの理由で東インド会社の支配に反感を抱いていたんです。
そのため、いざ反乱が始まると、多くの社会階層がシパーヒー側に協力していき、大反乱に発展していったというわけです。

シパーヒーの経済的不安
さらに反乱には経済的な背景もありました。
東インド会社は長年にわたって、領土拡大を続けてきました。
しかし、19世紀半ばになると、インド征服がほぼ完成して戦闘の機会が減っていきました。
なので、それに伴ってそれまで必要だった大規模な軍隊の役割も小さくなっていったんです。
その結果、軍隊の中心だったシパーヒーたちは解雇の不安を抱えるようになります。

考えてみれば当然ですよね。何十年も命をかけて戦ってきたのに、仕事がなくなって生活できなくなるかもしれないなんて。
加えて、支配者であるイギリス人との待遇面でも格差がありました。

シパーヒーは昇進の機会が限られ、重要な役職はイギリス人が独占して、給与や手当の面でも格差があり、不満が募っていたんです。
シパーヒーたちは次第に、

自分たちは利用されているだけではないか・・・
と考えるようになっていきました。
こうした不満が積み重なっていたことで、さっきの弾薬包事件から大きな反乱を引き起こすことになったんです。

反乱の経過
ムガル皇帝の擁立
インド大反乱が始まると、反乱軍はデリーへ進軍していきます。
そこで彼らが注目したのがムガル皇帝でした。
当時のムガル帝国はすでに実質的な支配力を失って、皇帝の権威はデリー周辺に限定されていました。
しかし、名目上は依然としてインドの伝統的な支配者でした。
そこで、反乱軍は高齢のムガル皇帝を擁立して、

皇帝のもとでイギリスと戦う!
と宣言したんです。
このように、ムガル皇帝の権威を借りたことで、反乱は「イギリスからインドの伝統を守る戦い」として認識されて、多くの社会階層の人たちが反乱に参加していくことになりました。

ちなみに、当時のムガル皇帝は、政治家というより文化人に近い存在で、宮廷では詩や芸術を楽しんで、皇帝自身も詩作が好きだったそうですよ。でも反乱が起きると、一気に「反英運動の象徴」へと祭り上げられることになったんです。


イギリスの反撃
SQ:反乱軍は多くの支持を集めたにもかかわらず、なぜ勝利できなかったのか?
そして、各地で反乱が連鎖して起こり、北インド全域に戦火が広がっていきました。
一時はイギリス支配が崩壊するんじゃないかと思うほどの勢いをみせます。
しかし、反乱軍には大きな弱点がありました。
それは統一した指揮系統がなかったことです。
反乱に参加した人たちは、必ずしも同じ目的を持っていたわけではなかったんです。
シパーヒー、藩王、農民、都市住民では立場も利益も違いました。
加えて、ヒンドゥー教やイスラーム教などの宗教の違いによる内部対立も起こるようになっていきました。
そのため、反乱軍は組織的な作戦を立てることが難しい状況になってしまったんです。
一方、イギリス側は世界各地から増援部隊を送り込み、ネパール兵やシク教徒も味方につけて、形勢を逆転させていきました。
鉄道や電信など近代技術も活用しながら軍を再編していき、反乱軍を各地で撃破していくようになります。
こうして、インド大反乱は次第に鎮圧されていくことになりました。
参加勢力ごとに利害が異なり、統一した指揮系統を作れず、組織的に戦うことができなかった。加えて、イギリスが増援部隊や近代技術を活用して反撃したため、最終的に敗北した。

終結とムガル帝国の滅亡
反乱が鎮圧されていく中で、ついにムガル皇帝もイギリス軍に拘束されてしまいます。
そして、ムガル皇帝は最終的に流刑されてしまいました。
これによって、16世紀初めから続いてきたムガル帝国は完全に歴史の舞台から姿を消すことになり、名実ともに滅亡してしまいました。
反乱自体はその後も1年以上に渡って続きましたが、形勢を逆転させることはできず、イギリス軍によって鎮圧されて、インド大反乱は幕を閉じることになりました。

インド大反乱の意義
インド大反乱は、東インド会社による植民地支配に対して、インド人が大規模に立ち上がった最初の反英闘争でした。
反乱そのものはイギリス軍によって鎮圧されてしまいましたが、インド人の民族意識を高めるきっかけになりました。
また、この反乱を機に東インド会社は廃止されて、インドはイギリス政府の直接統治下に置かれることになっていきます。

さらに、その後の国民会議派の活動やガンディーの独立運動へとつながり、1947年のインド独立への第一歩となった点に大きな歴史的意義があります。

まとめ
MQ:インド大反乱は、なぜ北インド全域を巻き込む大規模な反英運動へと発展したのか?
A:シパーヒーの反乱をきっかけに、藩王や貴族、農民、職人などイギリス支配に不満をもつ人々が次々と参加し、さらにムガル皇帝が反乱の象徴として擁立されたことで、多くの人々を巻き込む大規模な反英運動へと発展したため。

今回はこのような内容でした。

次回は、インド帝国の成立についてです。イギリスによるインド直接統治の特徴とはいったい何だったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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