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はじめに

前回はこのような内容でした。


今回は、南北戦争後の南部再建についてです。なぜ黒人の権利は完全に保障されずに差別が残ってしまったんでしょうか?
それでは一緒にみていきましょう!
MQ:南北戦争後の「再建」は、なぜ黒人の自由と平等を十分に保障できず、差別を残したのか?
合衆国憲法の修正
SQ:南北戦争後の「再建」は、どんな目的で進められたのか?
第13~15条
南北戦争が北部の勝利で終わると、荒廃した南部の復興と社会の改革が北軍の占領下で進められていきました。
この南部再建では、戦争で破壊された都市や農地の再建はもちろん、政治制度の立て直し、そして何より「奴隷制の廃止後の社会をどうつくるか?」が最大の課題になりました。
戦争で勝利した北部は、
「奴隷制の完全終了」
「黒人に市民権付与」
「黒人男性への参政権」
を、国家の再建の中心にすることにします。
そして、これに基づいておこなわれたのが、合衆国憲法の修正第13条・第14条・第15条でした。

●第13条:奴隷制の廃止
リンカンがおこなった奴隷解放宣言はあくまで戦時中の措置にすぎなかったので、法的な効力は限定的でした。
なので議会は憲法修正第13条を成立させて、黒人奴隷制度を「永久に」禁止することにしたんです。

これはアメリカ史上初めて、憲法そのものが人種と自由の問題に踏み込んだ瞬間でした。
●第14条:黒人への市民権付与
続く第14条では、黒人を「合衆国の市民」として位置づけて、法の下の平等を保障しました。

後の公民権運動で、キング牧師が繰り返し根拠として引用したのがこの条文です。アメリカの民主主義を「人種を問わない権利」に近づけた、画期的な改正だったんですよ。
●第15条:黒人男性への参政権
そして第15条では、黒人男性に選挙権を与えました。
これによって、戦前は白人地主層が政治を独占していましたが、戦後は黒人が選挙に参加して、黒人議員が誕生する地域が現れることになりました。

しかし、憲法が変わったからといって、社会がすぐに変わったわけではありませんでした。
むしろ南部では、これらの改革に対して強い反発が起こりました。

それまで奴隷だった黒人が自分たち(白人)と同じ立場になったわけですから、この変化を受け入れられない人たちが数多くいたんです。
共和党を中心とした戦後の議会では、南部諸州を再び合衆国に復帰させる条件として、憲法第13~15条の批准を求めました。
批准(ひじゅん)・・・法律・行政・組織などで「その内容を実行してよい」と公的に認める行為
南部諸州はこれに反発しましたが、北軍が駐留する中で次々と批准を迫られました。
こうしたなかで、南部では憲法改正に対する反発がさまざまな形であらわれることになりました。
・黒人の政治参加を妨害する暴力
・黒人の自由を制限する「ブラック=コード(黒人法)」の制定
・白人至上主義団体(例:クー=クラックス=クラン)の台頭

つまり、議会が憲法で示した「新しいアメリカ」と、南部の社会が守ろうとした「旧来の秩序」が激しく衝突したんです。

南部再建の意義
南北戦争後の「南部再建」は、アメリカ合衆国が民主主義を再定義した時代でした。
黒人が市民として認められて政治に参加し、短期間で大きな前進がありました。
しかし同時に、南部の抵抗が根強く、黒人差別が強まってしまいました。

この憲法理念と現実の差別問題の溝を埋めるための闘いは、20世紀の公民権運動まで続いていくことになります。
奴隷制を廃止し、黒人を市民として認め、黒人男性に参政権を保障することで、アメリカの民主主義を再定義することを目的として進められた。
奴隷解放後の黒人
SQ:黒人の自由は、なぜ経済的な自立につながらなかったのか?
期待と現実
その渦中にいた、奴隷から解放された黒人たちが最も求めていたのは「土地」でした。
奴隷時代、彼らは白人農場主(プランター)のために、プランテーションで強制労働をさせられていました。
なので、奴隷解放後は自分の土地を持って、自立した農民として生きることを望んでいたんです。

当時、黒人の間で広まった有名な言葉が、「40エーカーの土地と1頭のラバがあれば、自由人として生きていける。」でした。※40エーカー=東京ドーム約3.5個分
これは北軍の一部の指揮官が黒人に約束したとされる土地分配案が元になっています。当時の農業では「ラバ」が欠かせない労働力だったんですね。
しかし、戦争が終わると、「自由以外に何もなし」の状態で黒人たちは社会に放り出されてしまいます。
もともと奴隷だったので、住む家も、耕す土地も、生活するための資源も持っていなかったんです。
なので、黒人たちは自立して生活できるように、連邦政府に土地の分配を期待しました。
共和党の中でも農場主(プランター)の土地を没収して黒人に分配する案が出ましたが、白人層の強い反対によって、これらの政策はほとんど実現することはありませんでした。
それは当時、大統領となったジョンソンが南部出身者で、黒人への大規模な土地分配には消極的だったことが原因の一つでした。

西部ではホームステッド法によって白人農民に160エーカーもの土地が無償で与えられたのに、黒人にはその4分の1すら認められなかったんです。

シェアクローッパー(小作農)
こうして土地を得られなかった黒人の多くは、旧プランターの農地で「シェアクロッパー(小作農)」として働くことになりました。

シェアクローッパー(Sharecropper) とは、収穫物(crop)を地主と分け合う(share)という意味で、収穫の一定割合を地主に納める仕組みでした。要は小作人です。
この制度では、地主(旧プランター)が土地だけでなく、住居・家畜・農具などの生産用具まで貸し与えていました。
なので、黒人農民は収穫の半分ほどしか手にできず、そこから用具の賃貸料や生活のための借金を返済しなければなりませんでした。
結果として、黒人たちは「借金→収穫→返済→また借金」という負のループに陥って、経済的な自立がほとんど不可能になってしまいました。

当時の黒人農民の家計簿を見ると、借金の項目が延々と続いていて、収穫期になっても、返済すると手元にはほとんど残らず、生活のためにまた借金をするのが当たり前でした。
さらに、南部のプランターたちは戦争で途絶えた綿花市場を回復させるために、黒人に綿花栽培を強制しました。
綿花は商品作物だったので、黒人農民は自給用の作物を育てる余裕を奪われて、生活はますます苦しくなっていきました。
こうした状況から、南北戦争後の黒人たちの多くの生活は、奴隷時代の強制労働と本質的には変わりませんでした。
身分上は「自由民」になっても、経済的には「債務奴隷」だったんです。

土地を与えられなかったために、旧プランターの農地で小作農(シェアクロッパー)として働かざるを得ず、負債の連鎖から抜け出せなかったため。
秘密結社KKKの台頭
奴隷制の廃止によって敗れた南部の白人たちは政治的・社会的な主導権を失い、生活の再建に苦しんでいました。
こうした不安と不満の中で誕生したのが、秘密結社クー=クラックス=クラン(KKK)でした。

ギリシア語の「ククロス(円)」とスコットランド系の「クラン(氏族)」を組み合わせた名前で、当初は仲間内の集まりを意味するだけのものでした。
※以後、「クー=クラックス=クラン」=「KKK」と表記。
戦後の南部では黒人の政治参加が進んで、北部から来た役人やならず者も入り混じって治安が悪化していました。
白人の不安が高まる中で、このクラブは「自警団」へと姿を変えていき、やがて黒人の政治参加を暴力で阻止する秘密結社へと変わっていきました。

ちなみに、白いローブと三角頭巾は初期のKKKには存在しませんでした。現在イメージされるような姿は後に作られたもので、黒人に「幽霊のように見せる」ことで恐怖を与えるために考案されたんですよ。
KKKは急速に南部各地へ広がっていき、黒人の投票を妨害したり、学校や教会を襲撃して、黒人を支援する白人までも標的にしました。
そして絶頂期には、リンチ、放火、殺人が日常的におこなわれるようになります。
これを見かねた連邦政府は、ついに1872年にKKKの解散を命じて、活動は一度的に衰退していくことになりました。

この後、第一次世界大戦後の1920年代に再び勢力を拡大していき、この時期にKKKは会員数が数百万人に達して、政治家を支援して、堂々と街で行進するほどの社会的影響力を持ちました。

黒人差別社会の形成
SQ:南部白人は、なぜ黒人の権利拡大に強く反発したのか?
北軍撤退と「南部の逆転」
表立っては黒人解放を実現しましたが、北軍が南部占領を終了すると状況が一変します。
北軍という「監視役」がいなくなったことで、南部では旧大農園主(旧プランター)や白人自営農民、新興産業資本家らが民主党を通じて政治を主導するようになっていきます。
そして、彼らは黒人の政治参加を徹底的に排除しようとしていきました。

ジム=クロウ法と人種隔離社会の成立
それでも南部の再建では、黒人は新しく与えられた投票権を武器に政治参加を進め、州議会に代表を送ることもできました。
しかし、多くの黒人が経済的に自立できない状態は政治の権利を徐々に弱めていきました。
ジョージア州を皮切りに、南部諸州では黒人の選挙権を制限する動きが広がっていきます。
投票税が実施され、わずか1ドルの課税でしたが、借金まみれの黒人にとっては「払えない=投票できない」という状況でした。
このように、1890年頃から、南部諸州では黒人の権利を制限する州法が次々に制定されていきました。
・投票税
・読み書きテスト
・祖父条項(祖父が投票権を持っていなければ孫も投票できない)
これらは全て黒人を選挙から排除するための巧妙な仕組みでした。
黒人の投票を妨害するために行われた「読み書きテスト」では、大学入試レベルの難問が出されることもありました。

例えば 「州憲法第○条の内容を要約せよ」 「この文章の趣旨を説明せよ」 など、明らかに黒人を落とすための試験だったんです。
一方で白人には「簡単な質問だけ」「そもそも免除」などの特別扱いがあり、完全に不公平な制度でした。

さらに公共施設を人種別に分ける「ジム=クロウ法」が広がっていき、学校・病院・バス・鉄道などあらゆる場所で「白人専用」「黒人専用」の表示が並ぶようになっていきました。
しかもその後、連邦最高裁の裁判では 『分離していても平等なら違憲ではない』 という判決が下されます。
この判決は、ジム=クロウ法を事実上容認するものでした。

平等と言いながら、黒人用施設は白人用よりはるかに劣悪な環境でした。
これらのような人種隔離体制が解消されるのは、1960年代の公民権運動までかかることになります。

黒人が政治参加し、投票権を行使することで、南部白人が支配してきた政治的・社会的・経済的な優位が脅かされると強く恐れたため。
まとめ
MQ:南北戦争後の「再建」は、なぜ黒人の自由と平等を十分に保障できず、差別を残したのか?
A:南部白人の強い反発と暴力、土地を得られなかった黒人の経済的困窮、北軍撤退後の人種差別政策によって改革が挫折し、平等が定着しなかったため。

今回はこのような内容でした。

次回は、アメリカ合衆国の大国化についてです。アメリカの歴史において「移民」はどのような役割を担ったんでしょうか?
それでは次回もお楽しみに!
「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク
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