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[13-3.2]奴隷制問題と南北対立

13-3.アメリカ合衆国の発展

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はじめに

グシャケン
グシャケン

前回はこのような内容でした。

グシャケン
グシャケン

今回は奴隷制問題をめぐる南北の対立についてみていきます。なぜ合衆国は西部に拡大していく中で、奴隷制を巡って南北対立が起きたんでしょうか?

それでは一緒にみていきましょう!

MQ:なぜ西部への領土拡大を進める中で、奴隷制をめぐる南北対立に発展したのか?

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建国の理念と奴隷制の矛盾

アメリカ合衆国は「自由」「平等」「人権」を掲げて独立を果たした国家でした。

しかし、その建国の理念では国内で奴隷労働をしていた黒人のことは除外されていて、南部の州では黒人奴隷を使った大規模プランテーションが経済の土台になっていました。

北部では奴隷制が次第に廃止されていきましたが、南部は「州の自治権」を盾に奴隷制の維持を主張して、合衆国憲法でも奴隷制自体が禁止されることはありませんでした。

黒人奴隷制問題 
グシャケン
グシャケン

では、なぜ北部では奴隷制は廃止されていったんでしょうか?

SQ:なぜ北部では奴隷制が廃止されていったのか?

その最大の理由は、北部の社会と経済が「奴隷を必要としない仕組み」に変化していたからなんです。

●都市の工業化

北部では18〜19世紀にかけて工業化が進んでいき、都市が発展しました。

北部は気候が冷涼だったので、綿花やタバコのようなプランテーション作物には向いておらず、家族経営の小規模農業が中心で、奴隷を大量に使う必要がありませんでした。

なので、南部の「奴隷を使えば使うほど利益が出る」という仕組み北部にはできなかったんです。

そして、工場で働く労働者も、賃金を受け取る自由労働者だったので、拘束された奴隷労働とは根本的に相性が悪かったんです。

●人道主義

また、北部には独立宣言の理念である「すべての人は平等に造られている」という思想を重視する文化がありました。

宗教的な人道主義の影響も強く、社会運動の一つとして奴隷制廃止が支持されていったんです。

グシャケン
グシャケン

この時期に禁酒運動や公立学校の普及運動が広がったのも北部の特徴です。

●『アンクル=トムの小屋』

『アンクル=トムの小屋』は、1852年にストウが書いた小説で、黒人奴隷として生きるトムの苦しみや、奴隷家族の逃亡を描きながら、奴隷制度の残酷さを強く訴えた作品です。

家庭の物語として描くことで、当時の人々に「奴隷制度の非人間性」を身近に感じさせ、北部の反奴隷制感情を大きく刺激し、南北の対立を深めました。

南北戦争の一因になったとも言われるほど、当時のアメリカ社会に大きな衝撃を与えた作品でした。

グシャケン
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ただし、北部では「奴隷制」自体を批判していただけで、「黒人」に対する差別意識はあったそうです。

なぜ北部では奴隷制が廃止されていったのか? 都市の工業化 人道主義

●移民社会

さらに、北部ではヨーロッパからの移民が多く賃金労働者として工場や都市で働いていました。

仮にもし奴隷制が残ると、移民の仕事が奪われてしまい、失業者であふれてしまうことになってしまうんです。

グシャケン
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このような移民社会では、奴隷制は労働市場と矛盾する制度だったんです。

●政治的対立

最後に、政治的な理由もありました。

奴隷州が増えると連邦議会で南部の勢力が強くなります。

なので、北部の政治家はこれを警戒して、奴隷制の拡大に反対していました。

人道主義だけでなく、政治的な利害も北部の奴隷制反対を後押ししていたんです。

グシャケン
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以上のことをまとめるとこんな感じです。

なぜ北部では奴隷制が廃止されていったのか? 移民社会 政治的対立
SQ:なぜ北部では奴隷制が廃止されていったのか?

工業化で奴隷を必要としない経済に変わり、人道主義や移民労働との矛盾、さらに政治的利害が重なったため

しかしこうしたなか、独立直後、南部の奴隷制は一時的に衰退していきます。

ところが、18世紀末にある発明が状況を一変させることになりました。

それがホイットニーが発明した綿繰り機です。

グシャケン
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彼はもともと法律家志望で、たまたま滞在していた農園で「綿の種を取るのが大変」という話を聞き、機械を作ってみたところ大成功したと言われています。

ちなみに綿繰り機とは、綿花から種を高速で分離するための装置のことを指します。

ホイットニーの綿繰り機
ホイットニー

この綿繰り機によって、綿花の生産性が飛躍的に上がることになり、南部の綿花は世界総生産の約6割、総輸出の4~6割を占めるほどに成長していきました。

この出来事によって、南部は「綿花経済=奴隷制」という仕組みをますます強めていくことになりました。

ホイットニーの綿繰り機

●綿花経済と奴隷制の正当化

1808年に人道的な視点から奴隷の輸入が禁止されると、プランテーションの農場主たちは奴隷を酷使するだけでなく「自然増」によって労働力を確保しようとしました。

これによって奴隷は“財産”として扱われ、売買され、“資本”として計算されるようになっていきました。

なので、南部では奴隷制による資本主義的な経済効果を主張して、奴隷制を正当化しようとしたんです。

グシャケン
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ちなみに、奴隷たちが歌っていた労働歌は、のちのブルースやゴスペル、さらにロックやヒップホップにも影響を与えたと言われています。今のアメリカの音楽文化には、奴隷たちの歌が影響していたんですね。

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西部への拡大とミズーリ協定

ミズーリ協定

19世紀、アメリカは西部へと領土を拡大していきます。

新しい州が次々と誕生するなかで、北部と南部は「新州を自由州にするか、奴隷州にするか」をめぐって激しく対立することになりました。

北部は人道主義の立場から奴隷制の拡大に反対し、南部は連邦議会での勢力を維持するために奴隷州の増加を求めました。

そして、この対立を一時的に抑えるために成立したのがミズーリ協定でした。

1820年にミズーリ準州が奴隷州として合衆国に加わりたいと申し出たことをきっかけに、北部と南部の政治的なバランスが大きく揺らぎます。

1819年の段階では、自由州11・奴隷州11という「きれいな均衡」が保たれていました。

なので、どちらか一方が増えるだけで議会の勢力図が変わってしまう状況だったんです。

そして、ミズーリ準州はフランス領だった頃から黒人奴隷を使っていたので、奴隷州を主張していました。

綿繰り機の普及によって、綿花プランテーションが急速に拡大していき、奴隷労働への依存が強まっていた南部にとって、ミズーリの奴隷州化は勢力拡大の絶好のチャンスだったんです。

一方、北部では奴隷制に対する反感が高まり、すでに多くの州で奴隷制が禁止されるか、自然消滅の方向に向かっていました。

北部の議員たち「ミズーリを奴隷州にすれば、議会のバランスが崩れ、奴隷制拡大派が優位になる」と警戒し、強く反対しました。

ミズーリ協定 成立背景

激しい議論の末、モンロー大統領のもとで妥協が成立することになりました。

それがミズーリ協定です。

グシャケン
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内容は次の三点です。

ミズーリ州の奴隷州としての昇格

メイン州を自由州としての分離独立

北緯36度30分以北での奴隷制禁止

この「線引き」によって、自由州・奴隷州は再び12対12となり、政治的な均衡が保たれることになりました。

そして、それまで曖昧だった境界線が明確化されたことで、南北の対立はひとまず落ち着いていくことになりました。

ミズーリ協定
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ミズーリ協定の崩壊と南北対立の再燃

カンザス・ネブラスカ問題

南北の対立をいったん落ち着かせたミズーリ協定でしたが、アメリカ=メキシコ戦争によって広大な領土を獲得すると、再び「新しい土地を自由州にするのか、奴隷州にするのか」という問題が起こります。

この段階ではまだ妥協の余地があるように見えたんですが、民主党が主導したカンザス=ネブラスカ法が成立すると、状況が一変します。

カンザスとネブラスカは、ミズーリ協定の線より北に位置していたので、本来なら自由州になるはずでした。

しかし、カンザス=ネブラスカ法は「奴隷州か自由州かは住民投票で決める」と定めて、ミズーリ協定の原則を覆してしまったんです。

グシャケン
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民主党は南部のプランター(大農場主)が支持基盤だったので、その後押しで成立した法律だったんです。

ちなみにこの法律が生まれた背景には、ダグラスの政治的な思惑もありました。彼は大統領選出馬を視野に入れ、南部の支持を得るために奴隷制拡大に道を開く政策を打ち出したのです。

カンザス=ネブラスカ法 民主党

一見すると「住民が決める」という民主的な仕組みに見えますが、実際にはミズーリ協定の均衡を壊す内容で、北部では激しい反発が起きます。

実際に、住民投票で決めるという仕組みは、現地のカンザスで混乱を生みました。

南部と北部の領邦から移住者が殺到して、武装した奴隷制支持派と反対派が衝突してしまいます。

町が焼かれ、投票所が襲撃されるなど、カンザス準州は内戦状態に陥ってしまいました。

グシャケン
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新聞はこの惨状を「流血のカンザス」と報じて、アメリカ社会に大きな衝撃を与えました。

カンザス=ネブラスカ法の影響

共和党の結成

カンザス=ネブラスカ法への反発は、北部の政治勢力も大きく再編させることになりました。

奴隷制拡大に反対する北部の政治家や市民が集まって、共和党が誕生します。

共和党は以下のような人々を支持基盤としていました。

・北部・西部の農民

・産業資本家

・労働者

彼らは「奴隷制の新領土への拡大反対」という点で団結しました。

こうして、アメリカの政治は民主党共和党の二大政党体制へと移行していくことになりました。

グシャケン
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現代でも続く二大政党制がここから始まったんですね。

共和党の成立 二大政党制

SQ:なぜ妥協が繰り返されたにもかかわらず、南北対立を解決できなかったのか?

グシャケン
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ではここで、なぜ妥協が失敗して、南北対立を解決することができなかったのかをまとめておきましょう。

南北対立が妥協では解決できなくなった理由は、以下のように整理できます。

・新領土のたびに自由州・奴隷州の争いが再燃したため

・ミズーリ協定が法で崩れ、妥協の土台が失われたため

・南部の利害と政治的思惑で妥協が成立しなくなったため

・対立が暴力化し、社会の亀裂が深まったため

・共和党成立で奴隷制問題が政治の中心争点になったため

グシャケン
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以上のことを簡単にまとめるとこんな感じです。

SQ:なぜ妥協が繰り返されたにもかかわらず、南北対立を解決できなかったのか?

妥協は一時的に対立を和らげただけで、領土拡大のたびに奴隷制の扱いが再び争点となり、ミズーリ協定のような均衡のルールが破られると南北の不信が決定的になったため、対立は解決できなかった。

なぜ妥協が繰り返されたにもかかわらず、南北対立を解決できなかったのか?
グシャケン
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こうした政治対立は、後に建国以来最大の内戦である南北戦争を起こすことになります。

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まとめ

MQ:なぜ西部への領土拡大を進める中で、奴隷制をめぐる南北対立に発展したのか?

A:西部拡大によって「新州を自由州または奴隷州にするのか」という問題に対し、北部と南部の利害が正面衝突したため、奴隷制をめぐる南北対立へと発展した

グシャケン
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今回はこのような内容でした。

次回は、南北戦争についてです。なぜ南北戦争では北部が勝利することができたんでしょうか?

それでは次回もお楽しみに!

「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ。」by ビスマルク

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